(元)候補者から見た東京都知事選 偏る報道、政党の思惑...選挙の「本当の目的」を問い直そう

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私の今回の東京都知事選

   実は、今回の選挙に私は出馬を検討していた。

   借金を返し終わりつつあり、今回は誰か候補を応援しようと楽な気持ちでいたのだが、試しに今回の都知事選に向け公約を書いたところ、これが選挙の選択肢として出さないのは余りにも惜しいという思いになり、300万円を支援を受けて集め、それを納める法務局(東京 九段下)まで行ったのである。

   しかし、断念した。本当にあと一歩のところだった。

   やはりどうしても政党に忖度する強烈な偏向報道と社会問題を訴える一個人の立候補を軽視する風潮は拭われていないと思ったからだった。

   それはこの選挙後の4年間をまた借金返済などで建設的な活動が出来なくなるのを意味する。ただ「見向きもされないから」という意味ではなく、長い目で見た本当の戦いを見越してのものであった。

   言い訳じみてはいるが、断念のショックは大きく、しばらく体調を崩した。元気を取り戻しまず行ったのは込山洋候補の応援演説である。

   マスコミに黙殺される候補という存在は、その背景の市民の苦しみの声を踏みにじる社会であることを意味している。

   現状の都知事選が陥っている問題(前述の政権争いに利用されていることなど)を訴え、その意識を共有し真摯に向き合う込山洋候補をご覧くださいと呼びかけた応援演説だった。

   その後は後藤輝樹候補や山本太郎候補の演説を見て周り、さらに積極的に選挙に関わるつもりだったが、私を育ててくれた親族の入院があり、都知事選への関わりは中断することになる。

   どの候補も特別な人などではなく、皆同じ家庭や日常を営む普通の人である。

   立候補は特別な印象を人に与えるが、その先入観は当たり前の捉え方を邪魔する。本当は、立候補する権利は誰もが持ち、日常にはびこる私達の問題を広く訴える仕組みが選挙である。

   だから私は何より大きな問題である、国政と都政を切り分けられない風潮と氷河期世代以降の若い方々の救済を訴えた。

   既に最終日を迎えた東京都知事選であるが、果たしてどのような結果と今後の4年間を生み出すのだろうか。

   様々な立ち位置の人がそれぞれの意志を証明するために投票する。

   その中には選挙権のない小さな子達のこれからの未来の絶望が拭われてほしいという願いが込められたものがあるかもしれない。

   それが今私達の迎えている東京都知事選なのである。

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