大正時代は確かに明治の剛直なイメージとは異なり、どこか人間的な空気が醸し出されている。多分そこには二つの理由があるように思う。一つは大正天皇のイメージである。明治天皇と違って何か文人肌の色合いが濃いように思う。実際に漢詩には特別の才能を持っていて、もし天皇でなければ近代日本の中でもっとも才能の溢れた詩人と言えるだろうとの専門家の意見もあったと言われていた。
「新中間層」が活字文化を支えた
もう一つは、市民意識が高まったことであった。大正デモクラシーという語で語られるように、市民としての自覚をもつ層が社会の中に一定の割合で力を持つことになった。白樺派に代表される文芸活動や浅草の庶民オペラなどの動きの中にも、いわゆる自立する庶民の社会意識があった。あえてもうひとつの側面を考えると、日本経済が一定の段階に達して、新中間層が生まれたともいえた。旧制中学、高校、そして大学、それに専門学校などの高等教育の普及により、意識の高い中間層が増えた。
そういう中間層は企業の一員に組み込まれ、給与所得者になった。それが新中間層であった。彼らは家庭をもつと、東京市郊外(例えば東京の中央線でいうと中野、高円寺、阿佐ヶ谷などだが)に家を建て、丸の内の会社に通った。そして新宿とか渋谷などのターミナル文化を支える役割を果たした。しかもこうした新中間層は活字文化の支え役でもあったのだ。出版社の設立も大正時代の半ばからであった。
このような時代背景を理解すると、第3期の国定教科書(1918=大正7年~1932=昭和7年)が自立する個人、諸外国との友好、さらには文芸への関心を高めるための方向に舵を切ったのはよく理解できる。あえていうならば大正時代の可視化されている年譜には、近代日本の民主主義方向が明確に刻まれているということができた。この事実を私たちは、確認しなければならないであろう。そのことは不可視の部分、いわば大正精神ともいうべきものはどのようなものなのか、を確認することでもある。それは第3期の国定教科書と1933(昭和8)年の第4期の国定教科書を比べると歴然とするといえるように思う(後述)。