戦中日本の「旅行制限」 メディアは国民に「自粛」を迫った

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あの手この手で抜け穴探した国民たち

   では、これらの統制に国民は大人しく従っていたかというと、そうではなかった。抜け穴を突いて束の間の旅行を楽しみ、あるいは生活のために出かける国民はいた。

   ポピュラーな手口は「乗り越し」である。証明書がいらない短距離の切符を買っておいて下車駅で精算してしまえばよい。特に定期券や都市部の国電区間の切符を使い、地方へ買い出しに向かう手口は戦争末期まで続いた。逆に切符の発売制限が近距離乗車券に限られていた時期は、わざわざ長距離の切符を購入して途中下車の体裁で近場の目的地に降りる手口も目立った。これらに対応して当局も「決戦非常措置要綱」発令に伴って定期券による乗り越しの禁止や罰則の強化を行った(朝日新聞1944年4月7日)。

   長距離の私鉄が発達している地域では私鉄で行けるところまで行き、国鉄に乗り換えることもできた。小田急小田原線(当時は東急電鉄の一部)で小田原に出て国鉄に乗り換え、湯河原・熱海方面に向かう旅客の手口は新聞にも報じられている(読売新聞1944年4月3日)。関西・東海・九州でも同様の手段は可能だっただろう。

   さらに国民の本音を拾ってみよう。1926年生まれの旅行作家・宮脇俊三は戦時中の買い出しについて

「大きな荷物を背負った買出し部隊で汽車はますます混雑するようになった。これに対して『鉄道は兵器だ』『決戦輸送の邪魔は買出し部隊...』といった標語が駅に貼られたりしたが、効果はほとんどなかったと言ってよかった」

   と、自著『時刻表昭和史』で回想する。さらに宮脇の回想によれば、旅行証明書による旅行制限も、官公庁のコネを活用して証明書を入手する抜け穴があり、切符も鉄道職員の裁量で買える例もあったとのことだ。旅行統制官のもとにも「公用」と称しての虚偽申告がかなり多いと報じられている(読売新聞1945年7月18日付)。戦争末期に空襲が激化すると罹災証明書があれば優先的に切符が買えるようになり、混乱期には臨時に仕立てた疎開列車に切符を買わずとも乗れる場合もあった。

   これらの抜け穴を認識している当局としては「自粛」を呼び掛けることになる。例えば内閣情報局発行の国策雑誌「写真週報」315号(44年3月発行)は決戦非常措置要綱発令後の混雑した上野駅の写真を表紙に採用し「『自分さえ旅行できればよい』この根性の行列が続く限り決戦輸送は空転する」と訴えている。

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