外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(9)
台湾はなぜ抑え込みに成功したのか

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台湾の歴史がもたらした必然だった

   では、蔡政権は、たまたま幸運に恵まれたのだろうか。そうではない、と野嶋さんは言う。それには、台湾の歴史を遡る必要がある。

   台湾は、清朝時代に福建省の統治下に編入されたが、文明圏の外にある「化外の地」として周縁化され、1895年の日清戦争の結果、日本の領土に編入された。下関条約談判中に清国側全権の李鴻章は日本側全権の伊藤博文に対し、台湾には四害があり、難治の島であると警告した、と伝えられる。アヘン吸引などと並ぶうち一つは、「瘴癘(しょうれい)の島」、つまり伝染病や風土病などがはびこる土地柄を指す。

   台湾領有ではじめて植民地を得た当時の日本は、衛生制度の確立によって、台湾の近代化を図ろうとする。実質的にその政策が軌道に乗ったのは、第4代総督の児玉源太郎(1898~1906年)と、後藤新平民政長官時代の8年間だった。児玉は東京で兼務の仕事も多かったため、台湾の施策について実際に掌握していたのは後藤だった。

   1857(安政4)年に仙台藩に生まれた後藤は、須賀川医学校を出て愛知県医学校に勤務し、1890年からのドイツ留学を経て内務省衛生局長になった。その後、日清戦争の帰還兵の検疫業務で活躍し、その働きを認められて児玉に招聘され、台湾に赴いた。

   医師出身の後藤は、統治の基本理念に「生物学の原則」を掲げ、国家をひとつの有機体とみなし、いかにその健全化を図るのかを指針とした。「あらゆる社会には、生物と同じく、相応の理由と必要性があって発生した」という考え方だ。つまり、台湾における独自性や個別性をまず理解し、その実態に即した近代的な改革を目指す手法といえるだろう。彼は、台湾で戸口・土地・旧慣の3大調査を行って実情を把握し衛生制度や民政制度の確立に力を尽くした。まさに李鴻章が指摘した「瘴癘の島」を、近代化しようとしたのである。

   後藤は、インフラ整備だけでなく、札幌農学校出身の新渡戸稲造を招いて台湾臨時糖務局長に据え、サトウキビやサツマイモの普及に尽力させた。また、教育制度の拡充にも力を入れ、台湾大医学部の前身にあたる台湾総督府医学校や病院を設立した。

   だが、1945年の敗戦によって、台湾は50年に及ぶ日本統治から切り離され、中華民国・南京国民政府軍の統治下に入る。49年には、国共内戦に敗れた蒋介石が軍を率いて台湾に移ったため、以後は中華民国として、大陸への反攻をもくろむことになった。

   中華民国に統治が移行する1947年2月、台湾に以前から住んでいた「本省人」に対する弾圧事件が起きた。その後、長く伏せられる「二・二八事件」である。

   この事件は、たばこの闇販売をしていた女性を取締官が殴打したのをきっかけに起きた弾圧事件で、民衆がラジオで抵抗を呼びかけたことから暴動が起き、国民党軍は部隊を基隆に上陸させて南北の鎮圧に向かい、数千人から2万人の民衆を銃殺、処刑したとされる(国立台湾歴史博物館の展示による)。

   この事件は1949年から87年まで、戒厳令下の台湾ではタブーにされ、公にされることはなかった。日本でも広くこの事件が知られるようになったのは、1989年に製作された侯孝賢監督の「悲情城市」がきっかけだろう。

   49年に始まる蒋介石独裁政権は、台湾を米国の反共政策のアジアにおける要石とし、政界、財界、官界、メディアなど主要ポストを独占して、内外への白色テロで反対勢力を封じてきた。

   75年に蒋介石が死に、後を継いだ息子の蒋経国は、米国の政策変更で台湾が国際社会で孤立しつつある現状を見て、父親のように、台湾を、いずれ大陸に反攻する国民党の拠点ととらえるのではなく、本来の台湾へと引き戻す方向に舵を切っていく。その政策転換の柱が、インフラ整備などと並び、自らの後継となる李登輝ら「本省人」の抜擢だった。

   1988年に蒋経国が亡くなった後、総統の座に就いた李登輝は、党内の守旧派による干渉を排除して実権を握り、台湾の民主化を進め、96年の直接選挙で初の民選総統に選ばれた。00年には民進党の陳水扁が総統に選ばれ、これが初の政権交代となった。

   その後、08年からの国民党・馬英九政権、2016年からの民進党・蔡英文政権へと変わり、ここにきて選挙による政権交代は完全に定着した。

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