外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(9)
台湾はなぜ抑え込みに成功したのか

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台湾の対応

   その間、台湾はどのように新型コロナに対応していたのか。野嶋さんは、感染症対策には(1)空港などにおける検疫強化で感染を水際で食い止める(2)流入した場合には感染者や濃厚接触者を検査・隔離して感染拡大を抑え込む(3)クラスターの複数発生や、経路が不明な感染が増えたら、都市封鎖あるいは行動変容で対処する、という3段階があるという

   台湾は1月から2月にかけての時期に、(1)でほとんど感染を制圧し、流入した感染も(2)の検査・隔離で素早く感染経路をつぶした、という。日本がこの時期、(1)と(2)についてはきわめて緩い措置しかとらず、いきなり(3)の段階に突入したのとは対照的だった、という。

「感染については国民の生命安全を守るのが最優先で、外交利益や経済的利益は次の優先順位になる。台湾はその合理性を徹底して追求したが、日本は中国の習近平国家主席の訪日予定や経済的な打撃を最小限に食い止めたいという思惑があり、一見合理的に見えたが、足元の罠にとらわれたように見える」

   なぜ台湾当局が、そうした原理原則を貫くことができたのか。野嶋さんは、民進党の蔡英文政権の布陣が功を奏したという。03年のSARSで危機対応にあたったメンバーや医療・感染症の専門家が多数いたからだ。

   野嶋さんが、その筆頭に挙げるのは、陳建仁副総統だ。台湾大の「公共衛生研究所」で修士号、ジョンズ・ホプキンス大で公衆衛生の博士号を取り、03~05年には民進党の陳水扁政権で衛生署長(衛生相)を務め、SARS対応にあたった。その後は台湾の国立アカデミーにあたる「中央研究院」の副院長を務めたが、2016年の蔡政権誕生時に副総統に就任した。蔡政権2期目が始まる5月には退任予定だったが、その前に新型コロナが発生したのは、台湾にとっても蔡政権にとっても「不幸中の幸い」だった、と野嶋さんはいう(陳氏は5月20日、予定通り退任)。

   SARSの教訓といえば、蔡総統も例外ではない。SARS当時、蔡総統は対中政策を担当する大陸委員会の主任委員を務め、中国との交渉にあたった。その当時の経験から、民進党を警戒する中国からは十分な協力を得られないことを悟っていた。今や約80万人の台湾出身者がビジネスなどで大陸に拠点を置き、毎週数百便のフライトが大陸と行きかうなど、経済的な結びつきは強まるばかりだ。それでも、感染拡大を防ぐには往来の窓を閉ざすしかない、と判断した。こうして1月下旬には中国人の入国制限を強化し、2月上旬には全面禁止に踏み切った。3月上旬まで入国制限を引き延ばした日本とは対照的だ。

   台湾には常設のNHCCのもと、感染発生の非常時に、そのつど設置される「中央流行疫情指揮中心(CECO)」という組織がある。防疫や感染防止のエキスパートによる「司令塔」である。今回は1月20日に海外感染に対応する3級組織として起ち上げ、同23日には国内対応の2級組織に格上げし、さらに2月末には1級に再格上げして組織を強化した。2級格上げ時から、そのトップになったのは、陳時中・衛生福利部長(衛生福利相)だった。

   歯科医だった陳部長は、歯科医師会幹部として健康保険制度の改革に辣腕を発揮した経験を買われ、蔡総統らと同じく、陳水扁政権時代に衛生署副署長になった。蔡政権発足後は総統顧問になり、2017年に衛生福利部長となった。「情報は多いほど、パニックを防げる」として連日記者会見を行い、質問が尽きるまで答え続ける。条理を尽くすその姿勢で、信頼感を培ったという。

   それ以外にも、SARS流行当時に台北市長だった蘇貞昌・行政院長(首相)や、台湾大の公共衛生研で修士号を得た陳其遭・行政副院長(副首相)など、蔡政権を支える人材には、感染症の対策にあたった人物や公衆衛生の専門家が数多くいる。日本ではオードリー・タン氏の活躍が注目されたが、光に照らされたその下には、堅牢な氷山が横たわっているのである。

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