保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(48)
「市民的感覚」教えた「大正の教科書」

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   実は第2期の国定教科書について、識者の間からは、あまりにも政治から国民を遠ざけ、単に指導者の言うがままの人間に育てるのは誤りではないかと言う批判はあった。

   1911(明治44年)に衆議院で村松亀一郎が、第2期の国定教科書は軍人を作ることが目的ではないかと思うと言い、忠君愛国、家族主義を強調するのはそれなりに納得できるとしつつも、次のように文部大臣に質したのである。

  • 第3期の国定教科書は、これまでの国定教科書とはかなり趣が異なっていた。写真は1918=大正7年発行の「尋常小学国語読本」
    第3期の国定教科書は、これまでの国定教科書とはかなり趣が異なっていた。写真は1918=大正7年発行の「尋常小学国語読本」
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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  • 第3期の国定教科書は、これまでの国定教科書とはかなり趣が異なっていた。写真は1918=大正7年発行の「尋常小学国語読本」
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識者からも「政治から国民遠ざける」と批判出た第2期教科書

「所が独り大に欠けている。頗る其方針が誤っていると言うのは立憲政体の治下にある国民に政治のことを教えることが甚だ粗である」(引用にあたっては新仮名に変えた。『教科書の歴史』唐澤富太郎)

と、むしろ国民を政治に近づけまいとしているのではないかと批判している。この批判は政治家や言論人、さらには文部官僚の中にもあったようである。こういう底流は大正時代の、いわゆる大正デモクラシー、あるいは民本思想、社会主義思想が反映されてきたということだ。第3期の国定教科書は1918(大正7)年から始まる。明治の国家主義的傾向、昭和のファシズム体制の間に挟まれた大正期は、それらの国定教科書とはかなり趣が異なっていたのである。しかし同時に次のような特徴があったというのだ。前述の唐澤書からの引用である。

「この期の教科書は、時代風潮の影響のもとに、デモクラッチックな近代性を多分に発揮しながら、一面、歴史教科書の如きはナショナリズムの線に沿って編纂され、また国語においても神風や金鵄勲章が掲載されるなど、四期五期的展開への母胎性を示している」

「デモクラシー」を「民主主義」と訳さなかった理由

   この分析に従うと、大正デモクラシーは、やはり一定の範囲内での思想だったと言えるであろう。とは言いながら大正時代は明らかに明治時代の持つ登り竜ともいうべきエネルギーは、影を潜めている。変わって人間の持つ<文>そのものの発露を抱えていた。文芸復興の意味があったのである。

   1918(大正7)年の第3期国定教科書の修身についてその内容を俯瞰してみると、全体に近代的国民倫理や道徳を教え込もうとしているのがわかる。前近代的皇国民意識を薄れさせたとも言えるわけだ。先の唐澤書も強調しているのだが、日本国民に初めて市民としてのイメージを植え付けたのである。市民というのは個人としての社会的権利を理解することではあるが、小学生にこういう教育を行うことは、社会がそれだけの環境が整っていなければならない。実際にこの国定教科書の改定期には、吉野作造が『中央公論』(1916(大正5)年7月号)誌上において民本主義思想について詳細な論文を発表している。

   この論文のタイトルは「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」と長いのだが、その骨子はいわゆるデモクラシーの論理を説いたものである。この単語を「民主主義」と訳することは、天皇主権国家に対する挑戦のように思われるのは困ると、民本主義にしたのだと言うのである。

   吉野作造の説いた民本主義が教科書の中に取り入れられたわけではない。しかし第一次世界大戦は、その戦時下から戦後も日本社会を大いに揺るがせた。日本は日英同盟もあり 、英国の要請を入れていわゆる連合国側に加わった。もともと連合国側に立つ戦争目的があったわけではない。この第一次世界大戦により、ヨーロッパの国々は極東に関心を向ける余裕はなくなり、空間地帯が出来る状態になった。日本にとって都合の良い状態が生まれたのである。

国際連盟創設の精神も教えるように促す

   そのような空間地帯には二つの優位な状況が生まれた。一つは中国、韓国に対して軍事圧力をかけることが可能になったこと。もう一つは韓国などの抗日運動を徹底して弾圧することに欧米が干渉できないこと。これは有利な状況というよりは、日本が帝国主義的な道を歩む環境がより整ったという意味にもなるだろう。

   こうした条件のもとで、国家は国民に一定の範囲で世界に通用する市民的感覚を持たせようとしたとも言える。1917(大正6)年のロシア革命や1919(大正8)年の国際連盟の創設などもあり、思想善導は急務だと考えた節もあった。文部省は小学校高学年の修身の授業では、「国交」という章を設けて生徒たちに次のような意図を持って教えるようにと、教師たちに促している。

「大正七年十一月世界未曾有の大戦乱おさまり、翌八年一月巴里に平和会議開かるや、今上陛下は全権委員を派遣し給いて、世界の平和の為に尽さし給えり。此の戦役は文明国間に於ける戦争の惨禍が如何に甚大なるかを明らかに示せしかは、将来戦争を絶滅して永久に禍根を除かんとする熱心なる要求世界各国の間に起り来れり」

   こういう精神のもとで国際連盟が創設されたというのである。人間のありようを説き、相互に戦争を避けて平和的であろうと努力を続けることの重要性を生徒たちに知らしめよ、という姿勢はあまりにも画期的だった。むろん愛国心や天皇への報恩なども説かれているとはいえ、とにかくバランスのとれた市民像を作ろうとしていることが読み取れる。

   第3期の国定教科書の具体的な内容をさらに紹介していくが、この大正デモクラシーの教科書が、1933(昭和8)年の第4期国定教科書では真逆になってしまうところに日本社会の幼児性があったと言えるのではないかと、私は思えてならない。(第49回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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