「デモクラシー」を「民主主義」と訳さなかった理由
この分析に従うと、大正デモクラシーは、やはり一定の範囲内での思想だったと言えるであろう。とは言いながら大正時代は明らかに明治時代の持つ登り竜ともいうべきエネルギーは、影を潜めている。変わって人間の持つ<文>そのものの発露を抱えていた。文芸復興の意味があったのである。
1918(大正7)年の第3期国定教科書の修身についてその内容を俯瞰してみると、全体に近代的国民倫理や道徳を教え込もうとしているのがわかる。前近代的皇国民意識を薄れさせたとも言えるわけだ。先の唐澤書も強調しているのだが、日本国民に初めて市民としてのイメージを植え付けたのである。市民というのは個人としての社会的権利を理解することではあるが、小学生にこういう教育を行うことは、社会がそれだけの環境が整っていなければならない。実際にこの国定教科書の改定期には、吉野作造が『中央公論』(1916(大正5)年7月号)誌上において民本主義思想について詳細な論文を発表している。
この論文のタイトルは「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」と長いのだが、その骨子はいわゆるデモクラシーの論理を説いたものである。この単語を「民主主義」と訳することは、天皇主権国家に対する挑戦のように思われるのは困ると、民本主義にしたのだと言うのである。
吉野作造の説いた民本主義が教科書の中に取り入れられたわけではない。しかし第一次世界大戦は、その戦時下から戦後も日本社会を大いに揺るがせた。日本は日英同盟もあり 、英国の要請を入れていわゆる連合国側に加わった。もともと連合国側に立つ戦争目的があったわけではない。この第一次世界大戦により、ヨーロッパの国々は極東に関心を向ける余裕はなくなり、空間地帯が出来る状態になった。日本にとって都合の良い状態が生まれたのである。