「甲子園の土」が描く人間ドラマ 海に捨てられ、持ち帰れなかったナインも

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   第102回全国高校野球選手権大会の中止が、正式に決まった。春の選抜大会に続く中止で、最終学年を迎える高校3年生の甲子園は幕を開けることなく消滅した。高校野球の長い歴史のなかで、戦争での中断を除けば春夏連続の中止は史上初となる。新型コロナウイルスの影響で希望を絶たれた球児に対して、球界関係者から代替試合開催や記念品の贈呈など様々な「救済案」が浮上している。

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「ベンチ入り出来なかった3年生のため」

   多くの高校球児が聖地・甲子園でプレーすることを夢に見て高校の3年間、歯を食いしばって厳しい練習に耐えてきたことだろう。今年は春の選抜大会で32校、夏の選手権大会では49の代表校が出場するはずだった。夏においては地方大会さえ開催出来ない。地域によっては高野連が独自に県大会などを開催する動きがみられ、球児にとってせめてもの救いとなるが、春夏ともに甲子園を奪われた高校3年生の胸の内は計り知れない。

   記者は春、夏を通じて幾度も甲子園に足を運び高校球児を取材してきた。甲子園取材では、勝利したチームより負けたチームのほうが印象に残ることが多く、球児が敗戦後にあらかじめ用意していた袋に土を入れる場面は、何度見ても心を打たれるものがある。個人差はあるものの、多くの球児がグローブを入れるような袋にあふれんばかりの土を詰め込んでいた。

   なぜそんなに多くの土を持ち帰るのか球児に聞いたことがある。最も多かった答えが、「ベンチ入り出来なかった3年生のため」だった。この他には、「家族や親せきへのお土産」も多く、「地方大会で戦った他校のライバルたちにあげる」といったものもあった。今では甲子園で負けたチームの選手が土を持ち帰る光景は当たり前になっているが、この習慣はいつごろから見られるようになったのだろうか。

甲子園の土は「外国の土」

   甲子園の土を最初に持ち帰った球児については諸説ある。阪神甲子園球場の公式サイトのQ&Aには、甲子園の土を初めて持ち帰った人に関して「川上哲治(1937年、夏の23回大会)という説があります」と記されている。「打撃の神様」といわれる川上氏が、1937年に開催された夏の第23回大会の決勝戦後に甲子園の土をユニフォームのポケットにしのばせ後日、母校・熊本工のグランドにまいたというもの。この他には49年の第31回大会で小倉(福岡)のエースが持ち帰ったのが最初だという説もある。

   その一方で、甲子園の土を持ち帰らないという伝統を持つ高校もある。高校野球の名門・広島商は、甲子園で敗戦しても球児が土を持ち帰らない。脈々と受け継がれるチームの伝統だという。春の選抜大会では、夏の選手権大会という「次」があるため、あえて甲子園の土を持ち帰らない球児もいるが、広島商のようにチームとして甲子園の土を持ち帰らないという方針を持つ学校は珍しいだろう。

   甲子園の土を巡って悲しい出来事があった。1958年に開催された第40回大会でのことだ。当時、米国の統治下にあった沖縄の代表として首里高が甲子園に出場した。1回戦で敦賀(福井)に負けたナインは記念として甲子園の土を持ち帰ろうとした。だが、検疫の問題で土を持ち帰ることが許されず那覇港で処分された。甲子園の土は「外国の土」とみなされ海に投げ捨てられたという。

日本航空の客室乗務員が首里高ナインに...

   この話には後日談がある。首里高の球児が甲子園の土を沖縄に持ち帰れなかったことがメディアで取り上げられ、この事実を知った日本航空の客室乗務員が後日、甲子園の小石を首里高に贈った。客室乗務員の好意は、首里ナインにとって生涯忘れられない贈り物になっただろう。また、この小石は、首里高の敷地内にある甲子園出場記念碑「友愛の碑」に埋め込まれたという。

   高校球児にとって聖地・甲子園の土は特別なもので、土ひとつとっても様々なドラマがある。甲子園の土を踏み、その土を持ち帰る。当たり前のように行われていた光景を今年は見ることが出来ない。大会主催者は、球児、関係者らの安全、健康を担保できないとして苦渋の決断を下した。日本高野連の八田英二会長は2020年5月20日の会見で「まさしく断腸の思い」と語った。今は球児が安心してグランドでプレーできる日を待つしかない。

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