1910(明治43)年に改定された国定教科書(第2期)が、いかに「忠君愛国」を鼓吹するに至ったかをもう少し具体的に見ておきたい。なぜなら可視化された年譜の表の歴史とそれを支える時代の精神とはどのようにして作られたのか、つまりその裏を見ることにより、私たちの国の歴史が重層化してくるからである。
明治新政府がこうした忠君愛国を説くのが日露戦争に勝利してからということは、実は重大な意味を持っている。日本は忠君愛国を説いてその挙句に戦争に入っていったのではなく、戦争に勝ってから忠君愛国を説くのである。帝国主義的な教育の結果として、戦争があったのではなくて、戦争に勝つことで忠君愛国思想の鼓舞を始めたのだ。その結果、次の戦争をせざるを得なくなるといったサイクルに入っていく。日本的特異性というべきであろう。その点にメスを入れなければ日本人の心理や言動は納得できないというべきだ。
「天皇への報恩」が前面に出た第2期教科書
第2期の国定教科書の修身では、6年生は日露戦争が取り上げられる。生徒への指導について教師用の教本には次のように教えよと解説している。
「明治三七、八年戦役は我が大日本帝国が露西亞と戦ひて威名を世界にかがやかしたる大戦争なり。明治三十七年二月宣戦の詔くだるや、国民は一に聖旨を奉体して報国の誠を尽くさんことを期せり。陸海軍人は寒暑ををかし苦難をしのぎて勇戦し、或は弾雨の中に平然として其の任務を尽し、或は負傷すれども後送せらるることを否みて飽くまで戦場に立たんことを願ひしなど、忠誠勇武なる美談甚だ多し。(以下略)」(引用はすべて『教科書の歴史』唐澤富太郎から)。
実際に戦場でのエピソードは、いずれも出征者をたたえ、彼らをして後顧の憂いなきように戦わしめる、それこそ忠君愛国の鑑であるとの認識に基いて教えるように命じている。そして次の明治天皇の御製(ぎょせい=天皇の作った詩歌)を紹介するのである。
国を思ふ 道に二つはなかりけり 軍(いくさ)の場(には)に 立つも立たぬも
第1期の国定教科書では「天皇陛下」については、明治天皇の歩み、その人間性に触れるにとどめていたが、第2期ではこうして天皇への報恩を強く打ち出している。その点を教師は強調せよと執拗に命じられる。尋常小学校の4年生の修身では、日清戦争時の明治天皇に触れ、「陛下は朝早くから夜おそくまで、御軍服のままで、いくさの事を初め、いろいろのことをおさしつあそばされて御いそがしくあらせられたことは、まことにおそれ多いことでありました」と書くのである。いかに天皇が戦争の前面に立って戦ったかを教え、国民はその天皇に恩で報いなければならないというのだ。