両親の母国のボクサーにチャンスを
1952年当時、日本人ボクサーが世界王座に挑戦すること自体、現代とは比較にならないほど難しいものだった。王者サイドとの交渉、王者を招へいするための外貨、そして何よりも世界王者がその階級に1人しかいない時代である。日本にはプロボクシングの統括機構である日本ボクシングコミッション(JBC)さえ存在しておらず、JBCは白井氏の世界戦を機に52年4月に設立された。
白井氏の世界戦実現へ向けてカギを握っていたのが、王者マリノのマネジャーであるサム・イチノセ氏だ。イチノセ氏はハワイ出身の日系2世で、ハワイのボクシング界で強大な力を持っていたという。興行のための十分な外貨がなく、王者サイドからみればメリットの少ない世界戦だった。だが、イチノセ氏は両親の母国である日本のボクサーにチャンスを与えたいとの思いから試合を決めたという。日本ボクシング界の恩人のひとりだ。
ジム制度をとっている日本では、白井氏とカーン氏との関係は異色のものだった。白井氏はカーン氏と出会う前まで王子拳道会に所属していたが、カーン氏はマネジメントなどの権利を買い取り、白井氏とマネジャー契約を結んだ。カーン氏はファイトマネーからマネジメント料を差し引くことなく白井氏に全額与えたという。そして、現役引退後はボクシングビジネスには関わらず他のビジネスをすることを勧め、白井氏はこれを頑なに守り続けた。