プロ野球の名将・野村克也氏が亡くなってから3カ月が経とうとしている。南海ではプレイングマネジャーとしてチームを指揮し、ヤクルトでは4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成し、日本プロ野球史に残る名将として知られる。
J-CASTニュース編集部は、ヤクルト、阪神、楽天で野村氏の懐刀としてコーチを歴任した松井優典氏(69)を取材し、側近から見た「野村野球」について聞いた。
松井氏の印象に強く残るユマキャンプでの「研修会」
松井氏が野村氏に出会ったのは南海時代だった。松井氏は1968年にドラフト3位で南海に入団。70年から野村氏がプレイングマネジャーとして監督に就任し、松井氏は野村氏のもとでプレイヤーとして指導を受けた。その後、松井氏はヤクルトに移籍し、現役引退後はヤクルトの球団スタッフとして残留。野村氏がヤクルトの監督に就任後は2軍監督、1軍チーフコーチなどを歴任。阪神、楽天でも同様にコーチとして野村氏を支えた。
野村氏との数多くの思い出のなかで、松井氏の印象に残っているのは、野村氏がヤクルトの監督に就任した直後に行ったユマ(米アリゾナ州)キャンプだという。練習後、連日1時間ほどミーティングが行われ、野村氏が黒板に向かい、選手がノートを取る。「研修会」と称して行われたミーティングは、当時のプロ野球界では珍しいもので、松井氏の印象に強く残っているという。
「研修会の初めの頃は野球に関することよりも『人間とは』『人生とは』といった哲学的なテーマが多かったです。徐々に野球に関するテーマに移行していき、選手は自分が納得のいく言葉に大きな関心を寄せ、目の色が変わってくるのが分かりました」(松井氏)
「教わるまではっきり意識していた選手はいなかった」
松井氏は野村氏が実践した野球を「コロンブスの卵」と表現する。野球における戦略、配球を読む力、洞察力など他人とは目の付け所がまるで違ったという。
「例えば、相手の攻撃でランナーが1塁にいたとします。通常ならばこちらベンチは相手ベンチからどのようなサインが出ているかを見定めようと相手の監督、コーチに目が行ってしまう。野村さんは違いました。相手ベンチではなく1塁ランナーの動作を見ていました。ランナーの心理を分析し、ランナーの表情や走りたそうな仕草などを見極めていました」(松井氏)
また、配球面でも「野村野球」を通じて新たな発見をしたという。
「ストライク、ボールのボールカウントは全部で12通りあります。野村さんはこのボールカウントを『投手有利』『打者有利』『互角』と3つに分け、どのカウントがどれに当てはまるかを説明しました。言われてみればボールカウントは12通りあり、それに伴って投手、打者が有利、不利になるカウントがあり戦略も異なります。ただ、これは野村さんに教わるまではっきり意識していた選手はいなかったと思います」(松井氏)
23歳以下の選手は飲酒、タバコ禁止
野村氏は独自の視点から戦略を練り、ヤクルトを常勝軍団に育て上げ、選手の人間性の育成にも力を注いだ。当時、若者の間で流行していた茶髪、長髪を禁止し、髭を生やすことも嫌った。その一方で選手のTV出演を推奨するなど、ヤクルト時代は野村氏ならではの育成法が話題となった。
「南海時代、野村さんは選手の髪型などにはうるさくなかったです。ただ、23歳以下の選手には飲酒、タバコを禁じました。ヤクルトでは茶髪などを禁じており、社会人としてしっかりとした人間になってほしいとの思いがあったのでしょう。選手の身だしなみには厳しかったですが、選手がテレビに出演することには賛成で、むしろ推奨していました。プロ野球選手はお客様あってのものですから、プロであるからにはテレビに出てお客さんに見てもらうのも仕事のうちだと。マスコミにもどんどん出なさいという考えを持っていました」(松井氏)
野村氏はヤクルトの監督を退任後、阪神、楽天の監督を歴任。阪神では3年間、チームの指揮を執り全て最下位に終わり、楽天ではリーグ2位が最高成績だった。
「阪神時代は野村さんの力になれなくて反省しています。野村さんの野球は環境によって浸透するまで時間がかかります。阪神時代は時間がなかったと感じています。野村さんと共に阪神に移籍した初年度、ヤクルトと対戦した時、ヤクルトは野村さんが目指していた野球をやっているなと感じました。選手それぞれ自分がやるべきことを自分で考えてプレーしていました。阪神のベンチにいながら強く感じました」(松井氏)