「コロナ禍」という言葉はどこから来て、なぜここまで広まったのか

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便利な言葉は怖さもある

   というわけで、データと、ネットニュース編集者としての経験から、「コロナ禍」という言葉を追いかけてみた。

   便利な言葉というのは確かに助かる。ただ、ちょっと怖いところもある

   中島敦に、コロナ禍......じゃなく、「文字禍」という小説がある。主人公は「文字(この場合、言葉と言い換えても良い)」の害を主張する、古代アッシリアの老博士だ。

   人間は言葉を通じてイメージを共有できる。だがそのイメージは、逆にその言葉に縛られる。言葉では表せない細かなニュアンスや要素が、言葉を介すると見えなくなってしまう。すると「職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損う」。今風に言うと、世界の「解像度」が落ちてしまうのだ。そして、言葉で表されなかった部分は、忘れられてしまう。なかったことになってしまう。

「文字の精共が、一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ」(文字禍)

   上にも書いたように、「コロナ禍」という言葉の守備範囲は広い。広すぎて、一人ひとりの病苦から、疫学的な問題、経済への影響、個々人の困窮、生活上の不便、ひとびと同士の軋轢、政府の対策、社会の変動、あらゆるものが「禍(か=わざわい)」というふわっとした言葉の中にくるまれてしまう。すると老博士が言うように、本来見なくてはいけないものが見えなくなるのでは――。

   と、偉そうなことを書きつつ、僕はたぶん明日以降も「コロナ禍」を見出しに取ると思う。便利なんだもの。仕方ないね。

(J-CASTニュース編集部 竹内 翔

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