歴代首相の中でもハト派の代表格だと考えられてきた宮澤喜一氏(2007年没)が、2020年5月3日に施行から丸73年を迎えた憲法について、「強姦によって生まれた私生児」「その私生児がもうここまで育ってしまった以上、これを認め、自分の子供として育てていく以外にない」などと語っていた。
発言があったのは中曽根政権下の1985年11月。中曽根康弘元首相が生前に国立国会図書館(東京都千代田区)に寄託した大量の資料の中には、新聞記者の取材メモも大量に含まれており、その中の「宮沢(完全オフレコ懇談)」と書かれたメモに記されていた。1997年に行われた中曽根氏との対談では「我々自身で産んだものでなく、とかく違和感はあった」「我々が憲法というものを育て、使い込んでいった部分がある」などと語っていた宮澤氏。宮澤氏は放言の多さでも知られ、非公開を前提にした取材では、きわめて率直な憲法観を披露していた。
中曽根氏の業績は評価するが「『好きか』と聞かれれば『そうじゃあない』」
中曽根氏が国会図書館に寄託した文書の内容は、講演のための原稿や、政治家や文化人と交わした書簡、メモ書きが入った記者会見の資料など。その中には「情報簿」と題したファイルが34冊あり、1983年から10月28日から87年11月5日にかけて、政治家の発言とみられる内容が収録されている。その多くが「日時、取材対象者、取材形式、記録者」のフォーマットに沿ったメモで、大半が手書きメモのコピーだ。
一連のメモには、たびたび宮澤氏の名前が登場する。例えば赤文字で「要注意」と書かれ、「宮沢私邸懇(85.10.24夜) オフレコ」と題したメモでは、85年8月15日の中曽根氏による靖国神社公式参拝で、中国から予想外の反発を受けた背景を解説するなどしていた。宮澤氏の憲法をめぐる発言は、85年11月30日付の「宮沢(完全オフレコ懇談) 各社」と題したメモに記録されていた。報道各社の記者を前に、記事化しないことを前提に宮澤氏が話した内容を記録したメモだ。内容は多岐にわたり、メモには項目ごとに中見出しがある。当時は中曽根氏が首相、宮澤氏が自民党総務会長という立場で、「<中曽根-宮沢関係>」の項目では、こんな中曽根評を披露した。
「私は、中曽根内閣はなかなかいい仕事をしていると思っていますよ。何んとなく、私と中曽根さんの発想の違いから中曽根さんの業績を評価していないようにとられていますが考え方の違いと評価は別の問題ですよ。しかし『好きか』と聞かれれば『そうじゃあない』ということになる。多分、向こうも同じようにいうのでしょう。二人の関係は尽きるところ、敗戦後の米占領下での二人の行動と、この評価の問題にどうしてもさかのぼってしまうのでしょう」
「私生児」がここまで育ってしまった以上「自分の子供として育てていく以外にない」
確かに占領下の「二人の行動」は対照的だ。宮澤氏は1949年2月に発足した第3次吉田内閣で大蔵大臣秘書官を務め、1951年9月のサンフランシスコ講和会議に全権随員として出席した。対する中曽根氏は内務省を退職して1947年の衆院選で当選。反吉田派の保守議員として活動するとともに、この頃、民族主義的な青年団体「青雲塾」を立ち上げている。宮澤氏はこのことを
「私は米軍占領下では吉田内閣のもとで占領政策に協力した。中曽根さんからいわせれば、私はビシー政権(編注:第二次世界大戦中のナチス占領下のフランス政権。ヴィシー政権)のように映るのでしょう。一方、中曽根さんは官を辞して故郷に帰り、青雲塾をつくった」
と述懐し、憲法に言及した。
「私だって、米占領下では『こんちくしょう』と思う日々でしたよ。憲法についても、私は強姦によって生まれた私生児と思っていますよ。9条については幣原さんが申し出て後から入ったようにいわれていますが、先日なくなった白洲次郎さんによれば、あれも米軍から強引に挿入されたものと聞いています。しかし、その私生児がもうここまで育ってしまった以上、これを認め、自分の子供として育てていく以外にないじゃないかという気になっている。ところが中曽根さんはそう思っていないということなんでしょう」
GHQが草案を書いたのは「まことに不名誉なこと」
「完全オフレコ懇談」では、きわめて直接的な表現で、大きく(1)占領下で受けた屈辱(2)憲法の「出自」への評価(3)9条制定の経緯(4)改正の是非、といった点に言及したことになる。そのうち(1)(2)(4)については、その後のインタビューや対談で、比較的穏やかな表現で繰り返し言及している。
例えば、(1)については、1994~95年にかけて行われたインタビューをまとめた「新・護憲宣言―21世紀の日本と世界」(1995年、朝日新聞社)で、
「占領というのは政府はもちろん、国会から何からすべて占領軍の指令によって動くわけで、こんな屈辱的な経験は二度とやりたくないと思います。ときどき後藤田さん(編注:官房長官などを歴任した後藤田正晴氏)と、『当時の屈辱を実感として記憶している人間が少なくなっていきますね』という話になります」
と言及している。
宮澤・中曽根両氏は1997年4月に、憲法をめぐって論戦を交わしたこともある。その様子を収めた「憲法大論争 改憲vs.護憲(朝日文庫)」(2000年、朝日新聞社)によると、憲法問題調査委員会の松本烝治委員長が示した日本側の原案が連合国軍総司令部(GHQ)側に一蹴され、逆にGHQ側が草案を出してきたことを念頭に、(2)の論点にも言及した。
「それであっちに行ったりこっちに行ったり、1ヶ月ぐらいの間に松本さんがつくった案は拒否され、いろんなことがあって憲法ができてしまうわけですね。ですから、文字どおり、日本国民が自分の総意でつくった憲法ではありません。それはもう確かにその通りで、自分はそういうことを体験しています」
「1946年2月初めにマッカーサーからいろいろなことを言ってきたことは、知っていました。それで結局、我々の手ではなく彼らの手によって草案が書かれた。それはまことに不名誉なことですが、できたものを日本語で見て、私はこれは日本語ではないと思いました」
「我々が憲法というものを育て、使い込んでいった部分がある」
(4)についても、「新・護憲宣言」では
「しかしあれから60年近くたって、日本語そのものが変になったものだから、誰も憲法の文章が変だと言わなくなった。不思議なことですが、それならそれでよいわけです。第9条が違憲だとか、そのために日本が国際的に一人前の仕事ができないという人もありますが、PKOのときくらいの貢献ができればいいと大方の国民が考え、しかもいまや自衛隊が違憲だという主張も改められたわけですから、なおさら憲法を変えなければいけない理由はなくなっている」
と主張。「憲法大論争」での中曽根氏との対談でも、
「我々自身で産んだものでなく、とかく違和感はあったが、一方でそれが国民生活なり国の考え方を規制するとともに、他方で我々が憲法というものを育て、使い込んでいった部分があると思うんですね」
「いくつかの点で変えたほうがわかりやすいとか、読みやすいとかいろいろあると思うけど、変えるための国民的なエネルギーを思うと、そういう努力はあんまり有益ではないという気がする。つまり、改正のためのコストを払って得るベネフィット(利益)は、実はそれほどないんじゃないか」
などとして、改正に否定的な考えを繰り返した。
(3)では、首相だった幣原喜重郎が第9条を発案したとの説を、白洲から聞いたとする話を根拠に宮澤氏が否定している。白洲は1945年、外相だった吉田茂の要請で終戦連絡中央事務局参与に就任。吉田の側近としてGHQとの折衝に当たり、憲法制定の作業にも深く関与したことが知られている。その中でも、憲法制定に向けた考え方が、米国側は直線的な「空路」なのに対して、日本側はでこぼこ道をジープで走る「ジープウェイ」のようなものだとして、急激な変革への懸念をGHQ側に伝えた1946年2月15日付の「ジープウェイ・レター」が有名だ。
戦争放棄の記述を「前文」にとどめたかった日本側
だが、それも一蹴され、日本政府は3月6日にGHQ案をベースにした「憲法改正草案要綱」を公表。翌3月7日付けで作成された「白洲手記」も広く知られている。手記では一連の経緯が淡々と綴られるが、最後は
「斯ノ如クシテコノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル『今に見ていろ』ト云フ氣持抑ヘ切レス ヒソカニ涙ス」
という感情があふれる1文で結ばれる。手記に記された経緯では、松本委員長とホイットニーGHQ民政局長らが2月22日に面会した際の米側の要求について
「戰争排除ノ一章ヲ排除シテソノ主旨ヲ『プレアンブル』ニ含入セシムルコトハ反對、飽迄本文中ニ堂々ト書クベシトノ意見ナリ」
と記している。つまり、日本側からは戦争放棄に関する記述を「前文」の中にとどめたかったが、米側は、あくまで一つの章を割いて記述すべきだと主張したと読み取れる。現行憲法の第9条は、「第2章 戦争の放棄」の中に含まれている。
宮澤氏は「白洲次郎(コロナ・ブックス)」(1999年、平凡社)のインタビューで、白洲の存在について
「兄貴分というのも違うし、『親父』ほど離れてもいない。まさに英語でいうところの『フレンド』」
と明かしている。こういった比較的近い関係の中で、9条が「米軍から強引に挿入された」経緯を宮澤氏が白洲から聞かされていた可能性もある。
(J-CASTニュース編集部 工藤博司)