「我々が憲法というものを育て、使い込んでいった部分がある」
(4)についても、「新・護憲宣言」では
「しかしあれから60年近くたって、日本語そのものが変になったものだから、誰も憲法の文章が変だと言わなくなった。不思議なことですが、それならそれでよいわけです。第9条が違憲だとか、そのために日本が国際的に一人前の仕事ができないという人もありますが、PKOのときくらいの貢献ができればいいと大方の国民が考え、しかもいまや自衛隊が違憲だという主張も改められたわけですから、なおさら憲法を変えなければいけない理由はなくなっている」
と主張。「憲法大論争」での中曽根氏との対談でも、
「我々自身で産んだものでなく、とかく違和感はあったが、一方でそれが国民生活なり国の考え方を規制するとともに、他方で我々が憲法というものを育て、使い込んでいった部分があると思うんですね」
「いくつかの点で変えたほうがわかりやすいとか、読みやすいとかいろいろあると思うけど、変えるための国民的なエネルギーを思うと、そういう努力はあんまり有益ではないという気がする。つまり、改正のためのコストを払って得るベネフィット(利益)は、実はそれほどないんじゃないか」
などとして、改正に否定的な考えを繰り返した。
(3)では、首相だった幣原喜重郎が第9条を発案したとの説を、白洲から聞いたとする話を根拠に宮澤氏が否定している。白洲は1945年、外相だった吉田茂の要請で終戦連絡中央事務局参与に就任。吉田の側近としてGHQとの折衝に当たり、憲法制定の作業にも深く関与したことが知られている。その中でも、憲法制定に向けた考え方が、米国側は直線的な「空路」なのに対して、日本側はでこぼこ道をジープで走る「ジープウェイ」のようなものだとして、急激な変革への懸念をGHQ側に伝えた1946年2月15日付の「ジープウェイ・レター」が有名だ。