「私生児」がここまで育ってしまった以上「自分の子供として育てていく以外にない」
確かに占領下の「二人の行動」は対照的だ。宮澤氏は1949年2月に発足した第3次吉田内閣で大蔵大臣秘書官を務め、1951年9月のサンフランシスコ講和会議に全権随員として出席した。対する中曽根氏は内務省を退職して1947年の衆院選で当選。反吉田派の保守議員として活動するとともに、この頃、民族主義的な青年団体「青雲塾」を立ち上げている。宮澤氏はこのことを
「私は米軍占領下では吉田内閣のもとで占領政策に協力した。中曽根さんからいわせれば、私はビシー政権(編注:第二次世界大戦中のナチス占領下のフランス政権。ヴィシー政権)のように映るのでしょう。一方、中曽根さんは官を辞して故郷に帰り、青雲塾をつくった」
と述懐し、憲法に言及した。
「私だって、米占領下では『こんちくしょう』と思う日々でしたよ。憲法についても、私は強姦によって生まれた私生児と思っていますよ。9条については幣原さんが申し出て後から入ったようにいわれていますが、先日なくなった白洲次郎さんによれば、あれも米軍から強引に挿入されたものと聞いています。しかし、その私生児がもうここまで育ってしまった以上、これを認め、自分の子供として育てていく以外にないじゃないかという気になっている。ところが中曽根さんはそう思っていないということなんでしょう」