社会の鏡としてのパンデミック
ウイルスは人類登場と共に存在する。そう説く人も多い。ペストやコレラ、結核などが繰り返し発生したことを指摘し、いずれ私たちは有効なワクチンを開発し、あるいは集団免疫によってこの災厄を克服できる、という識者もいる。その通りだろう。現在、中国や韓国で活動が再開され、あれだけ感染が猖獗をきわめたイタリアでも制限解除の動きが出ているのを見れば、長いトンネルの先に一筋の光明を見る思いがする。こうして私たちは、繰り返し人類を襲ってきた疫病を、またも克服できるに違いない。
だが、今回の新型コロナウイルスと、過去の疫病は、同じようなものと考えていいのだろうか。その克服の先に出現する社会は、感染が大流行する前の、あの懐かしい、数か月前には自明と思えた社会と同じ姿なのだろうか。そのことを考えるうえで、参考になるインタビューが、「パンデミックはいかに歴史を変えるか」という表題で、米誌ニューヨーカー(電子版)に3月、公開された。
同誌がインタビューしたのは、イェール大で歴史・医学史を教えるフランク・M・スノーデン教授。近著に「流行病と社会 黒死病から現在まで」がある。その著書で教授は、流行病は気まぐれに、警告もなく人を襲って苦しめるものではない、と説く。反対に、すべての社会は特有の脆弱性を備えており、その脆弱性を考えるにあたっては社会の構造や生活水準、政治的な優先事項を理解しなくてはいけない、という。
これはどういうことだろう。自然界に存在するウイルスが、人間関係や社会にどうかかわっているというのだろうか。その問いに対する教授の答えはきわめて明快だ。
「流行病は、人類がいかなる者かを映し出す鏡だ。なぜなら、病原菌は人類が造りだした生態的な地位(niches)を求めて選択的に拡大し、拡散するからだ」
教授はその例として、今日のコレラや結核が、貧困や不平等が造りだした断層線に沿って広がることを指摘する。誰もが平等に、死に恐怖するが、結果は平等ではない。社会的、経済的に最も弱い人々が数多く犠牲になり、私たちの脆弱性をあらわにする。それが教授の見方といっていいだろう。
教授はインタビューの別の箇所で、流行病は「個人」に似ているともいう。人はすべて個人であり、誰とも違っている。それは置き換えができず、それぞれの特性や、科学者らがいかに対応するかにかかっている、という。つまり、新型コロナウイルスの拡大には、はっきりと21世紀が刻印されており、私たちもまた、新たな挑戦と対応を迫られている。