流行病が変える社会
米誌「スミソニアン・マガジン」は4月の電子版に「過去の流行病はいかに米国の暮らしぶりを変えたか」という論考を載せた。書いたのは、ミドルテネシー州立大でメディア論を教えるキャサリン・フォス教授。近く「悪疫の構築 メディアと集合記憶における流行病」を刊行の予定という。
それによると、19世紀末に蔓延した結核で、世界の7人に1人が亡くなり、米国でも死因の3位だった。1882年にドイツの医師ロベルト・コッホが結核菌を発見したにもかかわらず、感染防止は人々の常識とはなっていなかった。当時はまだ、汽車に備え付けの共用カップをみんなが使い、公共の場で唾を吐くのが当たり前だった。ニューヨーク市の保健当局は、1890年代に「結核との闘い」という衛生キャンペーンを展開し、カップの共用をやめさせ。各所にタン壺を配して繰り返し清掃した。
流行病がもたらすのは、習慣や行動様式に留まらない。「病気は永遠に社会を変える」と筆者のフォスは言う。
こんな時期だからかもしれない。筆者は流行病による社会の明るい側面に目を向ける。
19世紀の米国では路上は汚物にまみれていた。人々は読み終えた新聞や残飯、果ては寝室便器の中身を窓から道路に棄て、馬車や荷馬車を引く馬は糞尿を路上に垂れ流した。馬が死ぬと腐乱するまでその場に放置された。1880年にはニューヨーク市だけで1万5千頭の遺骸が回収されたという。
度重なる結核、チフス、コレラの蔓延は衛生環境を大きく変えた。排泄物の処理が組織化され、水道水は濾過装置や塩素消毒で浄化されるようになった。屋内トイレはすぐには普及しなかったが、排水下水のシステムが導入された。1891年に英国のトーマス・フラッパーが考案した水洗トイレは、やがて富裕層から中間層へと普及していく。
換気の大切さが分かると、ポーチや窓を取りつける家が増え、過密する米東部から環境のいい米西部に向かって移住する人々が増えた。
インフラだけではない。流行病は利他主義を育むこともあった。1793年に黄熱病が流行した時に、フィラデルフィア市長は衣類や食料、金銭の寄付を呼びかけて病院に送り、両親が病死した子どものために孤児院を建てた。
アラスカでジフテリアが流行した1925年1月には、人里離れた町に血清を届けるため、厳寒の雪原を犬ぞりがリレーで運び、多くの人命を救った。その犬を讃える像がニューヨークのセントラルパークに建てられ、その後も「アイディタロッド犬ぞりレース」という催しが定着した。
流行病は人々の意識も変える。戦後にポリオが大流行した時には慈善寄付を募り、のちに「マーチ・オブ・ダイムズ」という名前で知られる新生児支援団体が医療機器などを病院に届けた。さらに筆者は、流行病が公共の議論を活発化させるとして、1721年にボストンで天然痘が流行った時に、予防接種をめぐって激しい論争が起き、植民地最初の新聞の一つが創刊された例をあげる。
そう、筆者が言いたいのは、おそらく次のことだ。大規模な流行病は、人の行動だけでなく意識を、社会のインフラのみならず、規範をも変え、その後は、それが当たり前のようにみなされる。そして多くは後戻りしない。
つまり、ふだんは忘れている生と死の境を誰もが突き付けられ、人々は行動変容を余儀なくされ、それは広範な社会の「価値変容」をもたらす可能性が高い。