高校球児にとって夢の舞台である甲子園。これまで春の選抜大会、夏の選手権大会で数多くのドラマが生まれた。甲子園のグランドに立ち、その後プロ野球選手になったもの、高校を最後に野球から離れたものもいるだろう。
いずれも青春の大切な1ページとして記憶に残っているに違いない。J-CASTニュース編集部は、都城高(宮崎)で2度の甲子園出場を果たした「ミスター日ハム」こと田中幸雄氏(52)に当時の思い出を聞いた。
PL戦は「胸を借りるつもりでいきました」
田中氏は高校2年の時に、選抜大会、選手権大会に出場した。選抜大会は準決勝で敗れ、選手権大会は3回戦で敗退した。対戦校はいずれもPL学園(大阪)だった。田中氏と同学年で当時2年生だった桑田真澄氏と清原和博氏の「KKコンビ」が、春夏にわたって都城高の前に大きく立ちはだかった。
1984年の選抜大会準決勝。2年生ながら2番・遊撃手として出場した田中氏は、試合前の心境をこう振り返った。
「PLは甲子園の常連校でしたし、桑田、清原がいて優勝確率が高い学校でしたから、胸を借りるつもりでいきました。自分たちの力がどれほどのものか知りたい気持ちもありました」
準決勝戦の下馬評は、前年(1983年)の選手権大会を制したPL学園に大きく傾いていた。だが、試合は都城高のエース田口竜二投手がPL打線を抑え込み0-0のまま延長戦へ。迎えた11回裏のPL学園の攻撃。2死1塁の場面で桑田氏が放った飛球をライトの守備が落球し、1塁ランナーが一気にホームをおとしいれサヨナラゲームに。試合はあっけなく幕を閉じた。
「桑田のカーブは背中を通ってくるような感じで...」
「桑田と清原は同級生でしたが、清原は本当に同級生かと思うほど大きく、清原の打球の速さにびっくりしたのを覚えています。桑田はそれほど上背がありませんでしたが、下半身がしっかりしていましたし、カーブがすごかったですね。桑田のカーブは背中を通ってくるような感じで、体に当たるのではと思うくらい変化しましたし、まっすぐも速かったです。試合は都城の押せ押せで、もししたらと思ったのですが」(田中氏)
84年の選手権大会3回戦でまたもPL学園が立ちはだかった。試合は選抜大会とは大きく異なり、都城高は1-9の大敗を喫した。田中氏は「夏は完全に力の差が出た内容でした」と振り返り、「PLは能力の高い選手が多かったです。関西の中学からいい選手が多く集まり、その中からレギュラーを勝ち取るわけですから本当にレベルが高かったです」と語った。
3年時の夏の地方大会ではチームは3回戦で敗退し、甲子園の土を踏むことが出来なかった。田中氏が甲子園でプレーしたのは2年時の春と夏の2度。田中氏はその当時は緊張の連続だったという。
「なんとかいい方法で甲子園の土を踏ませてあげたい」
「夢であった甲子園に初めて足を踏み入れた時はとても感動したのを覚えています。ただ、私は2年生でしたので、試合では先輩に迷惑をかけてはいけないとの思いでいっぱいでした。試合を楽しむということはなかったと思います。でも、良い思い出として私の心の中に残っています」(田中氏)
都城市内の中学を卒業し、甲子園に出場したい一心で名門・都城高に進学した。当初、田中氏はレギュラーになれなくても、応援団の一員としてでも甲子園に行きたかったという。幼いころからの夢が叶い、春、夏ともに甲子園の土を踏んだ田中氏は「運が良かったと思います」という。
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、今夏に開催を予定している夏の甲子園の行方が不透明な状況にある。田中氏は「高校球児はみな、甲子園出場という夢を持って高校に入学し、甲子園を目標にして頑張ってきたと思います。春は出場校が決まりながらも中止になりましたし、なんとかいい方法で甲子園の土を踏ませてあげたい。そういう場を与えてほしいです」と率直な心境を語った。