横浜帰港直前の船内であった決定的だったこと
DP号は1月20日に横浜を出港し、鹿児島、香港、ベトナム、台湾、沖縄を経て2月3日に横浜に帰港した。千田さんらが異変を感じたのは、2月1日の沖縄寄港時だ。下船した乗客は、武漢での感染拡大の影響で、午後6時まで4~5時間の検温、問診などの検疫を受けた。那覇市内に行けないまま再びDP号に戻る人も少なくなかった。
実はこの日は、DP号から1月25日に香港で下船し、同30日に発熱した客が、新型コロナウイルスに感染していると確認されていた。米紙ニューヨーク・タイムズによると、香港当局は直ちに船会社に緊急メールを送ったが、それが翌日まで放置され、感染者確認を知った船会社も、同3日に清掃の強化という低レベルの汚染対策を取っただけだった。
この2日から横浜に帰港する3日までが汚染拡大においては決定的だった、と千田さんはいう。その間、船内では下船直前の祝賀イベントが盛大に行われ、ショーやダンス、音楽会などで、どこも人が混みあい、立錐の余地がないほどだったという。
千田さんはこれまで、リスクマネージメントの進行を総体としてとらえるモデルを考えてきた。これは、広義のリスクが「四つの段階」を経て、重なりながら進むプロセスをモデル化したものだ。
それによると、危機は(1)ハザード段階(武漢での汚染など潜在リスクの存在)(2)リスク段階(陽性の感染者発見など)(3)クライシス段階(危機の進行過程)(4)ダメージ段階(生死にかかわる重大局面の発生)という順で展開していく。
DP号の場合、香港で下船した客が陽性と確認された2月1日の(2)の時点から横浜に帰港する同3日までの間に、緊急連絡の放置と汚染に対する処置の不徹底という理由で(3)の段階が進み、(4)に至ったということになる。
だがDP号の場合、帰港は終着点ではなく、長く続く混乱の始まりになった。政府は3日、乗員乗客の下船を許可せず、翌4日にかけ、検疫官による全乗客・乗員の健康診断と、症状のある人やそれと濃厚接触のあった人から喉頭ぬぐい液採取を行なった。
千田さんの場合は、妻に一時、航海中インフルエンザの症状が出たため、3日の午後11時過ぎ、紺色の防護服にフェイスガードをつけた検疫官3人が船室のドアをノックし、夫婦から喉ぬぐい液を採取していった。
乗客は翌4日に下船予定で、荷造りをしたスーツケースを廊下に出して準備する人も多かった。しかし、船側からは何の連絡もなく、午後3時半近くになって突然、「検体を持ち帰って調べるので今夜は停泊します」とアナウンスがあった。
5日に加藤勝信・厚労相は、発熱やせきなどの症状がある人とその濃厚接触者273人の検体を採取し、うち31人の結果から、10人の感染が確認したことを明らかにし、検疫期間の14日間は船内に留まるよう求めた。
厚労省は7日までに全検体の検査結果が判明し、陽性が計61人に達し、うち重症が1人だと発表した。厚労省は陽性が判明した人々を下船させて東京、埼玉、千葉、神奈川、静岡5都県の医療機関に入院させた。陰性になった残りの人々は、検査を受けていない人と共に引き続き船内に留まり、原則客室待機になった。
だが、乗客は5日に船室待機と14日間の検疫を知らされて以降、ほとんどまとまった状況説明や支援内容、下船までの見通し(ロード・マップ)について説明を受けなかった。厚労省の連絡先に電話しても、いつも通話中で、たまにだれかが電話に出ても「担当者がいないので分かりません」といわれ、「後で連絡するから」と告げられても返事は返ってこなかった。陽性が判明した人は、30分前に電話で知らされ。電話から30分後には救急車で搬送されるという慌ただしさだったという。
悪化する船内環境に不満や非難の声が出始めたころ、7日の午前中に千田さんは、スマホに流れた一枚の写真に衝撃を受けた。