保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(44)
教科書から読み解く「戦争観」の変遷

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   日露戦争の英知がなぜ太平洋戦争時には受け入れられなかったのか、それを分析していくには多くの視点や見方がある。私はその視点の軸に、可視と不可視の史実を持ち込んでいるのだが、この場合とてさまざまな史実で語っていくことができる。これまでの説明では、軍人勅諭と戦陣訓の対比によってわかることを考えてみた。さらに日露戦争時の伊藤博文のような役割を持つ指導者が、太平洋戦争時には不在だったということにも触れてきた。

   昭和天皇自身が、太平洋戦争の敗戦について4点を挙げ、その一つに「常識ある主脳者(原文ママ)の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、と云ふ様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く(略)」と『昭和天皇独白録』で明かしているほどだ。確かに天皇の胸中を理解できる人材がいなかったことが、太平洋戦争時には明白であった。二つの戦争の違いについて改めて論じていくことにしたい。

  • 明治時代の国定教科書。リベラルな記述も多かった(写真は国立公文書館ウェブサイトから)
    明治時代の国定教科書。リベラルな記述も多かった(写真は国立公文書館ウェブサイトから)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 明治時代の国定教科書。リベラルな記述も多かった(写真は国立公文書館ウェブサイトから)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん

大半の生徒が「読み書き算盤」できた明治時代

   今回はこの二つの戦争の時に軍事と政治の責任者は、国民にどのような教育を行おうとしていたのか、その点を見ていくことにしたい。

   そのための手段として、1904(明治37)年の国定教科書の改定によって次代の子供達にどういう教育が行なわれることになったか、その内容を吟味してみることにする。そして1941(昭和16)年にやはり国定教科書の改定が行われていたが、この時はどうであったか、その内容を確認してみたい。むろん当時の政治、軍事指導者がそれぞれに向き合った戦争への心構えを、児童、生徒の教科書に持ち込んでいるわけではないのだが、しかし次の時代を担う子供達に新たに始める戦争をどのように教えようとしているか、はうかがうことができるのである。

   日露戦争時の指導者は、今自分たちが向き合っている戦争の本質をどう考えていたか、を知るための有効な手段であるとは言えるのだ。この手法はあまり用いられているわけではない。しかし可視、不可視という視点で歴史を見ていくならば、意外に多くの示唆を与えているようにも思うのだ。国民(臣民というわけだが)が、臥薪嘗胆を合言葉に三国干渉をはねのけて、まるでその恨みを晴らすかのごとく日露戦争に向きあったのは、そこに傾いていく忠臣としての心理構造があったからでもある。

   明治30年代は就学率が大幅に向上した。1901(明治34)年の義務教育の就学率は男子が90.5%、女子が71.7%であった。つまり児童、生徒のほとんどは読み書き算盤の基礎はできていた。さらに中等教育もそれなりに充実してきて、社会の中に知的な広がりを裏付ける環境は揃っていた。こうして1904(明治37)年から国定教科書(第1期)が全国一斉に使用されることになった。日露戦争が始まるのとほぼ同時期に国定教科書は作られたのである。ところがこれらの教科書はかなりリベラルだったのである。次の様に評することができた。

「やがては(国定教科書は)極端な<忠君愛国>を強調するものになっていったが、それでもとにかく、国定の最初では資本主義興隆期における近代的な教科書の性格を多分に持っていて、外国人からもほめられるというくらいの出来であった」(唐澤富太郎『日本人の教科書』)
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