不安の中、辛抱強く、冷静に過ごす市民も
マフィンとクッキーを売ってくれたリトアニア出身のユダヤ人男性が、満面の笑みをたたえ、全身に太陽を浴びるように、両腕を大きく広げて言った。
「コロナに怯えてなんかいないさ。こうして自然に触れて、健康でいられるんだ。僕たちの祖父母は、戦争を体験したんだよ」
そうか、彼はユダヤ人だった。
このあと22日からは、買い出しや病院、散歩など以外は自宅待機、食料品店など生活に不可欠な業種を除いて、在宅勤務を強いられた。グリーンマーケットは今も開いているが、人々は6フィートずつ離れて一列に並び、買い物の順番をじっと待つ。
友人のサラ(70代)は感染を恐れ、今、友人とは一切、会っていない。カウンセラーの仕事は、すべてオンラインでやり、毎日、ひとりでセントラルパークを散歩しているという。
「ニューヨークは大変なことになってしまった。Awful.(とんでもないね)」と私が言うと、ほぼ同時にサラが「Beautiful!(美しいわ!)」 と言った。
「ニューヨークは花が咲き誇って、平和で穏やか。今までは、あれをしなきゃこれをしなきゃとあくせくしていたけれど、静かな時間が流れている。歩けばやせるし、一石二鳥だわ」
医療従事者や警察官など、家にいたくても、危険にさらされて働かなければならない人がいる。これからの生活の不安に怯える人もいる。そして、今するべきことをし、辛抱強く、冷静に過ごしている市民も多い。
私たちも今、戦っている。公園で出会ったリトアニア出身の彼が言うような国同士の戦いではなく、共通の見えない敵と世界中が戦っている。それが、せめてもの救いだ。
そして、誰もが信じている。この戦いにいつか必ず勝利するのは、私たちであることを。(随時掲載)
++ 岡田光世プロフィール
おかだ・みつよ 作家・エッセイスト
東京都出身。青山学院大卒、ニューヨーク大学大学院修士号取得。日本の大手新聞社のアメリカ現地紙記者を経て、日本と米国を行き来しながら、米国市民の日常と哀歓を描いている。米中西部で暮らした経験もある。文春文庫のエッセイ「ニューヨークの魔法」シリーズは2007年の第1弾から累計40万部。2019年5月9日刊行のシリーズ第9弾「ニューヨークの魔法は終わらない」で、シリーズが完結。著書はほかに「アメリカの家族」「ニューヨーク日本人教育事情」(ともに岩波新書)などがある。