日露戦争は軍事大国のロシアに、極東の「小国」と思われていた日本が挑んだ戦争であった。当時の国際的な常識では、日本が勝利することなどまったく考えられていなかった。
にもかかわらず結果的に「勝利」という側に立ったのは、二つの理由を上げることができる。ひとつは大本営の参謀たちが戦略、戦術を真剣に練ったためである。巨大なロシア軍の弱点はどこか、あるいはロシア海軍の戦略の再検討、そしてロシア軍の兵士たちの心理分析を徹底して行ったためだった。
「政府・軍部・国民」一体で進めた日露戦争
もうひとつは、日本軍の兵士たちの戦闘精神であった。死を恐れずに戦うその精神力が戦場での微妙な勝敗の分かれ目になった。実際に開戦の場合は13個師団の動員で兵力30万人、それにさまざまな補助要員(兵站、輸送、衛生など)を含め54万人を目標として整備する予定であった。しかし現実には17万人編制がやっとであった。これに対して、ロシアの編成は地上兵力が207万人であった。兵力差も歴然としていた。最終的には日本側も100万人もの動員をおこなうことになったにせよ、こうした兵力差を埋めたのが、戦闘精神であった。日本軍の兵士たちの戦争への心理的な理解はどこから派生したのだろうか。
日露戦争は、すでにこれまで各書によって書かれているが、「政府・軍部・国民」が一体となって進めた。この場合の国民には兵士もまた含まれるのだが、戦闘地域によっては日本軍が勝利を得たといっても、戦死者数では日本軍の方が多いというのも珍しくはない。例えば旅順攻略は1904(明治37)年7月25日から、翌1905(明治38)年元旦の陥落まで続く。203高地を防衛するために高地から攻撃をかけるロシア軍に対して日本軍兵士はまさに人海戦術で高地の頂上を目指したのであった。この地の戦いでは、日本の第三軍の死者は約1万5400人、ロシア軍は1万1800人であったというのだ。
私は2000年初めに、203高地の頂上に立ったことがあるが、ここを陥落させた兵士たちの心情はどこにあったのだろうか、と考え込んでしまったのである。いくら戦争とはいえこの地を落とすのは、自らの命はないと覚悟したうえロシア軍の砲火と向き合うしか方法はない。
国家を民草が臥薪嘗胆で支えれば...
その覚悟は「軍人勅諭」のみでできるのではない。概括的な言い方になるが、参謀総長の山県有朋は首相の桂太郎に宛てた「政戦両略概論」という意見書(1905=明治38年3月27日)の中で、開戦以来、予想せざる形の勝利は、「我皇の威徳と我陸海軍将卒の忠勇とに由ると雖も然れとも亦 祖宗列強の冥護深厚なるに由らすんはあらす(略)」とも書いている。
指導者から見ればそのような認識を持っていたということになるのであろう。半藤一利の『日露戦争史(1)』には、「明治の日本人は、国家の強権がとほうもない、たとえば重税による生活の不安と苦悩を要求してきても、それを黙々と受け入れる覚悟ができていた。国家が産声を上げてからまだ三十七年、それを民草が臥薪嘗胆で支えれば立派な国家になると考えている」とある。この心境が国民ほとんどの共通の認識だったといってよかった。
日露戦争の開始とともに前首相の伊藤博文は、密かに男爵で法律の専門家でもある金子堅太郎を呼び寄せて、特別な依頼をしている。金子は岩倉使節団の一員として、アメリカに渡った折にハーバード大学で学んでいる。法律を7年間も学んできたのである。伊藤は金子が、当時のアメリカの大統領であるS・ルーズベルトと親しい関係にあることを知っていた。
「このロシアとの戦争がどの程度続くのか、今はわからないけれど、君はワシントンで戦争仲介の労をアメリカにとってもらうように動いて欲しい。本来私が行けばいいのかもしれないが、陛下がそばにいて欲しいというから無理なんだ」
日露戦争では日本の状況「可視化」できていた
それで金子はその役を引き受けることになった。その時に伊藤は、この戦争がうまくいくとは思えない、それだけにアメリカに間に入ってもらって納めどころをきちんと見極めなければならないとの感想を伝えている。伊藤の言はまさに政治と軍事を調和させる需要な指摘だったのである。金子は、伊藤の言に納得してアメリカに渡った。こういう状況をいくつか並べていくと、日露戦争は前述のように、「政府・軍部・国民」が表面上は一体となっていたといっていいであろう。これは天皇に対して、伊藤のような真に忠臣たろうとした存在がいたからであった。
同時に日本の置かれた状況が政府の側やジャーナリズムによって、比較的国民に諸事情が伝えられていたということもある。日本の置かれた状況が国民にも可視化して捉えることができたのだ。軍人勅諭は軍内で中心軸に据えられてといっても、そのために一身を賭すのではなく、国家、国民、そしてその中心軸に存在する天皇に対する忠義の心理だったように思う。日露戦争のこうした構図を見ていくと、可視と不可視の間には稜線があるとも理解できる。それを明らかにした上で、昭和の太平洋戦争の構図が異様な形になっていて、可視と不可視の間が崩れていることがわかってくる。日露戦争の英知はなぜ受け継がれなかったのか、そこがきわめて重要なポイントになるのである。(第44回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。