保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(43)
受け継がれなかった日露戦争の「英知」

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国家を民草が臥薪嘗胆で支えれば...

   その覚悟は「軍人勅諭」のみでできるのではない。概括的な言い方になるが、参謀総長の山県有朋は首相の桂太郎に宛てた「政戦両略概論」という意見書(1905=明治38年3月27日)の中で、開戦以来、予想せざる形の勝利は、「我皇の威徳と我陸海軍将卒の忠勇とに由ると雖も然れとも亦 祖宗列強の冥護深厚なるに由らすんはあらす(略)」とも書いている。

   指導者から見ればそのような認識を持っていたということになるのであろう。半藤一利の『日露戦争史(1)』には、「明治の日本人は、国家の強権がとほうもない、たとえば重税による生活の不安と苦悩を要求してきても、それを黙々と受け入れる覚悟ができていた。国家が産声を上げてからまだ三十七年、それを民草が臥薪嘗胆で支えれば立派な国家になると考えている」とある。この心境が国民ほとんどの共通の認識だったといってよかった。

   日露戦争の開始とともに前首相の伊藤博文は、密かに男爵で法律の専門家でもある金子堅太郎を呼び寄せて、特別な依頼をしている。金子は岩倉使節団の一員として、アメリカに渡った折にハーバード大学で学んでいる。法律を7年間も学んできたのである。伊藤は金子が、当時のアメリカの大統領であるS・ルーズベルトと親しい関係にあることを知っていた。

「このロシアとの戦争がどの程度続くのか、今はわからないけれど、君はワシントンで戦争仲介の労をアメリカにとってもらうように動いて欲しい。本来私が行けばいいのかもしれないが、陛下がそばにいて欲しいというから無理なんだ」
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