保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(43)
受け継がれなかった日露戦争の「英知」

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   日露戦争は軍事大国のロシアに、極東の「小国」と思われていた日本が挑んだ戦争であった。当時の国際的な常識では、日本が勝利することなどまったく考えられていなかった。

   にもかかわらず結果的に「勝利」という側に立ったのは、二つの理由を上げることができる。ひとつは大本営の参謀たちが戦略、戦術を真剣に練ったためである。巨大なロシア軍の弱点はどこか、あるいはロシア海軍の戦略の再検討、そしてロシア軍の兵士たちの心理分析を徹底して行ったためだった。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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「政府・軍部・国民」一体で進めた日露戦争

   もうひとつは、日本軍の兵士たちの戦闘精神であった。死を恐れずに戦うその精神力が戦場での微妙な勝敗の分かれ目になった。実際に開戦の場合は13個師団の動員で兵力30万人、それにさまざまな補助要員(兵站、輸送、衛生など)を含め54万人を目標として整備する予定であった。しかし現実には17万人編制がやっとであった。これに対して、ロシアの編成は地上兵力が207万人であった。兵力差も歴然としていた。最終的には日本側も100万人もの動員をおこなうことになったにせよ、こうした兵力差を埋めたのが、戦闘精神であった。日本軍の兵士たちの戦争への心理的な理解はどこから派生したのだろうか。

   日露戦争は、すでにこれまで各書によって書かれているが、「政府・軍部・国民」が一体となって進めた。この場合の国民には兵士もまた含まれるのだが、戦闘地域によっては日本軍が勝利を得たといっても、戦死者数では日本軍の方が多いというのも珍しくはない。例えば旅順攻略は1904(明治37)年7月25日から、翌1905(明治38)年元旦の陥落まで続く。203高地を防衛するために高地から攻撃をかけるロシア軍に対して日本軍兵士はまさに人海戦術で高地の頂上を目指したのであった。この地の戦いでは、日本の第三軍の死者は約1万5400人、ロシア軍は1万1800人であったというのだ。

   私は2000年初めに、203高地の頂上に立ったことがあるが、ここを陥落させた兵士たちの心情はどこにあったのだろうか、と考え込んでしまったのである。いくら戦争とはいえこの地を落とすのは、自らの命はないと覚悟したうえロシア軍の砲火と向き合うしか方法はない。

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