2020年3月21日に亡くなった宮城まり子さんは、公私ともに「一途の人」だった。
社会福祉の事業家としては、「ねむの木学園」づくりに邁進し、恋の相手としてはただ一人、作家の吉行淳之介さんに惚れ尽くした。
生まれて初めて恋をした相手に「奥さんがいる」
宮城さんが、「第三の新人」として注目されていた吉行淳之介さんと知り合ったのは50年代末。女性誌が企画した鼎談がきっかけだった。中原中也、梶井基次郎らを好む文学少女だった宮城さんは、すでに吉行さんの『驟雨』『原色の街』などを読んでいた。知り合って、好きになってから、「奥さんがいる」ことを知った。
宮城さんの演技面の指南役だった演出家の菊田一夫さんによれば、「まり子は昔のいじらしい女学生のような女の子」だったという。
「三十いくつにもなって、生まれて初めて恋をして、その相手が奥さんがいる男性で、そのために身もよじれるほどの切ない思いを味わっているとは、何という馬鹿なことをやる奴だ、と私は思ったが、それを叱る資格は私にもない」(菊田一夫著『芝居づくり四十年』)
宮城さんはいったん別れを決意し、ミュージカルの勉強のため欧米に向かう。パリにいたとき、父から国際電話があった。弟の作曲家、八郎さんが日本で交通事故死したというのだ。「二人でミュージカルを」と誓い、売れない時代から長年苦労を共にしてきた。編曲家として宮城さんの「ヒット曲」を支え、宮城さんにミュージカルの本場への留学を強くすすめてくれた八郎さん。まだ29歳だった。毎日、泣きはらしているときに吉行さんから手紙が届いた。「帰っておいで」。
愛は「マシュマロ」のような
「ねむの木」を始めるにあたって、吉行さんと、「3つの約束」をしたという。「愚痴を言わない」「お金がないと言わない」「やめない」。
その約束を守り、宮城さんは「ねむの木」にのめり込む。歌手、女優をほぼ休業して専念、障害児施設のほか、小・中・高・専門部・幼稚部の特別支援学校を持ち、美術館、工房などもある職員約100人の複合的な福祉施設へと大きく育てた。
宮城さんは1994年の吉行さんが亡くなる1か月前、特別に「ねむの木」から休みをもらう。東京の聖路加病院に泊まり込み、日野原重明医師らとともに最期を看取った。吉行さんの遺言は、「全作品の著作権はまり子に」だった。宮城さんは思い出の品々を集めて、ねむの木に「吉行淳之介文学館」をつくった。自らが選んだ吉行さん作品のアンソロジー『宮城まり子が選ぶ吉行淳之介短編集』も出版した。
吉行さんと、ねむの木の子どもたちとどちらが大切なのか。宮城さんは、そう自問することもあった。
「(私は)淳ちゃんを一番愛している。そしてもう一つの、一番愛しているのはねむの木の子ども」(「私の履歴書」)
愛は、マシュマロみたいなものだ、とも書いていた。二つに分けても、それぞれがふわっと大きくなり、再び同じ大きさになると。