宮城まり子さん死去、93歳 人気歌手から「ねむの木」創立へ

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   歌手や俳優として活躍し、肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」を静岡県に創立して福祉活動に尽くした宮城まり子(本名・本目眞理子=ほんめまりこ)さんが2020年3月21日6時55分、悪性リンパ腫のため都内の病院で死去した。93歳だった。

   27日に学園内で、子供と職員のみでお別れの会を行う。28日以降、学園と世田谷区の自宅で献花を受け付ける。

   慈善活動に関わる有名人は少なくないが、宮城さんのような人気芸能人が自ら施設をつくり、社会福祉事業家に転身したのはきわめて異例だ。信念と愛に支えられた情熱的な活動は多くの人から一目置かれ、いくつもの受賞をするなど高く評価された。作家の吉行淳之介(1924~94)さんとの親密な関係でも知られた。

  • 著書『またあしたから』(日本放送出版協会)より
    著書『またあしたから』(日本放送出版協会)より
  • 著書『またあしたから』(日本放送出版協会)より

「ガード下の靴みがき」で人気爆発

   1927年、東京生まれ。4歳から舞や清元を習うなど芸事に励んだ。母親の実家は静岡県で銀行を経営していた。母は東京女子大中退で、当時の女性としてはインテリだった。

   父の仕事の関係で少女時代を大阪、佐世保などですごした。小学校6年の時に最愛の母が亡くなり、ショックで不登校に。中学には進まなかった。やがて得意の歌を生かしてアマチュアバンドで歌うようになり、軍の施設などを慰問。戦後、米国のミュージカル映画を見て感動し、本格的に歌手を志すようになる。

   地方回りの苦労もしたが、有名な演出家の菊田一夫さんや作曲家の吉田正さんに認められ、「あんたほんとに凄いわね」「毒消しゃいらんかね」などがヒット、さらに55年の「ガード下の靴みがき」で人気が爆発した。不幸な境遇に負けず、懸命に生きようとする靴磨きの少年の物語に、宮城さんの明るく健気な歌声がフィット、まだ焼け跡の体験を引きずる世代に感動を広げた。「励まされた」「死ぬのをやめました」という手紙が山ほど届いたという。

   54年から62年までの間に、NHK紅白歌合戦に8回出場。当時としては、もっとも好感度の高い国民的な歌手の1人だった。女優としても58年、「12月のあいつ」で芸術祭賞を受賞したほか、同年の芸術座公演「まり子自叙伝」は日本初の3か月ロングランになり、テアトロン賞を受賞するなど華々しかった。

「脳性マヒの少女」の役がきっかけ

   人気絶頂時の宮城さんは超多忙で豆腐の値段も知らなかった。これでは世間からずれると、57年に1年間、「婦人公論」でハンセン病患者の病棟や心臓手術の現場、夜中も働く人々などのルポを担当し、社会への目を開いた。

   59年にはミュージカルで「脳性マヒの少女」の役をやり、障害児が社会からはじき出され、義務教育も受けられないことを知る。自分で支援施設を作りたいと思うようになり、折にふれ、内外の障害者施設を見学した。なかでもオランダの、障害者が仕事を持ちながらコミュニティを作って生活している施設群に共感を覚えた。68年、自己資金1700万円をもとに日本で初めての肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」をスタートさせた。

   人気女優の突然の福祉活動への転身は大きな反響を呼び、賛同の輪が広がった。宮城さんの「私の履歴書」(日本経済新聞社)によると、作詞家の服部良一さん夫人、作家の高見順夫人、作家の吉川英治夫人、伊藤忠の伊藤忠兵衛さん、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助さん、「絶対に匿名で」と政治家の鳩山威一郎夫人からも支援があった。見知らぬ作業着姿の人が突然1500万円の小切手を持参してきたことも。

   貧しい子、養護施設の子も高校に行けるようにしてほしいと、田中角栄首相(当時)に直訴し、短期間で制度改正が実現したこともあった。

   74年、記録映画「ねむの木の詩」をつくり、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル。このほか福祉や教育への貢献でエイボン女性大賞受賞、ペスタロッチー教育賞などを受賞した。

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