宮城まり子さん死去、93歳 人気歌手から「ねむの木」創立へ

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「脳性マヒの少女」の役がきっかけ

   人気絶頂時の宮城さんは超多忙で豆腐の値段も知らなかった。これでは世間からずれると、57年に1年間、「婦人公論」でハンセン病患者の病棟や心臓手術の現場、夜中も働く人々などのルポを担当し、社会への目を開いた。

   59年にはミュージカルで「脳性マヒの少女」の役をやり、障害児が社会からはじき出され、義務教育も受けられないことを知る。自分で支援施設を作りたいと思うようになり、折にふれ、内外の障害者施設を見学した。なかでもオランダの、障害者が仕事を持ちながらコミュニティを作って生活している施設群に共感を覚えた。68年、自己資金1700万円をもとに日本で初めての肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」をスタートさせた。

   人気女優の突然の福祉活動への転身は大きな反響を呼び、賛同の輪が広がった。宮城さんの「私の履歴書」(日本経済新聞社)によると、作詞家の服部良一さん夫人、作家の高見順夫人、作家の吉川英治夫人、伊藤忠の伊藤忠兵衛さん、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助さん、「絶対に匿名で」と政治家の鳩山威一郎夫人からも支援があった。見知らぬ作業着姿の人が突然1500万円の小切手を持参してきたことも。

   貧しい子、養護施設の子も高校に行けるようにしてほしいと、田中角栄首相(当時)に直訴し、短期間で制度改正が実現したこともあった。

   74年、記録映画「ねむの木の詩」をつくり、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル。このほか福祉や教育への貢献でエイボン女性大賞受賞、ペスタロッチー教育賞などを受賞した。

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