2020年3月中旬、ニューヨークのビルのエレベーターで一緒になった若い黒人女性が、日本で手に入れた白いマスクをする私の顔をじっと見ている。
新型コロナウイルスの影響で、アジア人に対する差別や暴力が報じられ、この街でもマスク姿のアジア人女性が罵声を浴びせられ、暴力を受ける事件があった。やや緊張していると、女性が不安げに言った。
「ねぇ、マスク、余分に持ってない? どこに行っても品切れなのよ」
自分でマスクを作る方法をSNSでシェア
米国はコロナウイルスを相手に本格的な戦闘状態に突入した。渡航警戒段階が最も高い「レベル4」に引き上げられ、米市民の渡航禁止勧告と国外在住の米市民の帰国勧告が出された。国内外のフライトは、次々とキャンセルが続いている。
3月21日夜(米東部時間)には、全米の感染者が2万5千人を超えた。トランプ政権は、ニューヨーク州に対して大規模災害宣言(MDD)を発令した。同州は3月22日午後8時から、必須事業以外の企業に対する全従業員の在宅勤務や、住民の不要不急の外出禁止を命じた。外出禁止令は、カリフォルニアやイリノイなど複数の州で出されている。
ニューヨーク州は大会議場や大学を臨時の病院として使用することを検討しており、人工呼吸器の回収、マスクの大量生産・配布に早急に乗り出す。
この連載の「マスク姿のアジア人はなぜ怖がられるのか」(2020年2月22日配信)で触れたように、これまで欧米では、日常の生活でマスク姿を見かけることはほぼ皆無で、異様な目で見られていた。医療関係者以外がマスクを着けていれば、重病患者だと思われた。
私は3月中旬頃から、初めてニューヨークでマスクを着けるようになった。多くの欧米人にはやはり物珍しいようで、マンハッタンの公園で観光客らしき白人女性にカメラを向けられたこともある。
が、この1か月間で、人々の危機意識は一変し、医療用マスクや薄い半透明のビニール手袋などを着ける人が日に日に目立ち始めた。服の襟元やマフラーで口や鼻を覆い隠す人もいる。自分でマスクを作る方法を、アメリカ人の私の友人知人もSNSでシェアしている。
マスクをする習慣がない、マスクに予防効果はないと信じている、手に入らないなどの理由で、着けていない人のほうが多いが、それでもマスク姿の割合は、着実に増えている。
スーパーのレジや郵便局、銀行の窓口などで、マスク姿の人も多くなった。ニューヨークの地下鉄の同じ車両に乗っていた14人のうち、11人がマスクをしていたこともある。
対策の見本は、日本ではなく、韓国のワケ
WHO(世界保健機構)は、感染者と接触する人や、咳やくしゃみなどの症状のある人にだけにマスク着用を勧めている。さらにきちんと使い方を守り、アルコールや石鹸で何度も手洗いしなければ、効果はないとしている。
マスクが不足している現状で、まずは医療関係者に回すべきとの意識も強い。
米国のマスコミは国民に対して、「最も必要としている医療関係者の手に渡るよう、マスクを買わないように」と呼びかけている。
ワシントン州シアトルでは、市内の「Target」の店舗で医療用マスク「N95」が店頭販売されているとの通報を受け、州知事が販売を中止させた。
同社は、「これは誤って店頭に置かれたもので、撤去して保健局に寄付します」とし、「さらに寄付できる在庫を確認しています。我々のコミュニティに対するコミットメントは揺るぎないものであり、陳謝します」と述べた。
マイク・ペンス副大統領も、「予防のためにマスクを買う必要はない」と言い切った。
米国で、コロナウイルス対策の見本とされているアジアの国は、日本ではなく韓国だ。
「日本のこれまでの検査総数は、韓国の8分の1だ。予定どおりにオリンピックを開催するために、感染者数が多くならないよう意図的に検査数を制限しているのではないか」と批判されている。
こうした記事に対して、日本に滞在経験のある人を中心に、「日本では以前からマスクをする習慣がある」、「日本は清潔な国で、衛生観念がきちんとしている」、「他人への配慮がある文化だ」などといった声も多い。
韓国政府は、2015年にMERS(中東呼吸器症候群)が猛威を振るった時の反省から、その教訓を生かし、以前から検査体制を整えていたと報道されている。しかし、検査では陽性でも陰性、あるいはその逆と出ることもあり、その信頼度について疑問の声も上がっている。
マスク着用がコロナ対策にどの程度、効果があるかはわからないが、しないよりした方がよいと信じて、私はニューヨークでは二枚重ねて着用している。
米国では「social distancing(社会的距離の確保)」、「6 feet(約1.8m)」が合言葉になっている。地下鉄や公園でも、人々は距離を置いてすわっている。
正面に「Trump Palace」と書かれた建物の前で、たまたまその近くに住む白人女性2人と立ち話した。「この建物も、トランプの所有かしら」と尋ねると、「Yes. Our fearless leader, Trump(そう。恐れを知らない我々のリーダー・トランプよ)」と拳を振り上げて言う。
トランプ支持者かと思ったら、「とんでもないわ。トランプはコロナウイルスは、大したことないなんて言っていた。あいつのせいで、こんなことになったのよ」と怒りをぶつけた。
ふたりはそろって、両手に薄い半透明のビニール手袋をはめていた。1人が言った。
「夫の介護で使った手袋が、残っていたのよ。スーパーのドアやカートに、素手で触れたくないもの」
2人は足早にスーパーに消えていった。「Stay safe.(安全にね。気をつけて)」と言いながら。
これも今や、合言葉になった。(随時掲載)
++ 岡田光世プロフィール
おかだ・みつよ 作家・エッセイスト
東京都出身。青山学院大卒、ニューヨーク大学大学院修士号取得。日本の大手新聞社のアメリカ現地紙記者を経て、日本と米国を行き来しながら、米国市民の日常と哀歓を描いている。米中西部で暮らした経験もある。文春文庫のエッセイ「ニューヨークの魔法」シリーズは2007年の第1弾から累計40万部。2019年5月9日刊行のシリーズ第9弾「ニューヨークの魔法は終わらない」で、シリーズが完結。著書はほかに「アメリカの家族」「ニューヨーク日本人教育事情」(ともに岩波新書)などがある。