軍人勅諭を曲解した昭和の軍事指導部
明治、大正の軍人は、実はここまで神がかりではなかった。むしろ客観的に事態を分析し、そして戦争を政治の延長に捉える理性や知性は持っていた。それが昭和になるとどうしてこんな具合になってしまったのだろうか。なぜに戦陣訓や皇軍史のような形になったのだろうか。もとより軍人勅諭の中に、そういう芽は存在した。しかし昭和のような形になることは、明らかに昭和の軍事指導部を構成した軍人たちになんらかの欠陥があったということであろう。
一例を挙げれば、太平洋戦争の末期になると、「日本は決して負けない。なぜなら神風が吹くから」との論がまことしやかに戦時下の社会に流された。神国だから、が前提になっているからであろう。さらに言えば、太平洋戦争の戦場で戦死した兵士の7割余は餓死や病死であった。兵站、補給などを全く無視した軍事指導部は、神兵は精神で持っている、だから食料や武器弾薬の不足は精神力で補えと命令したと、私には思える。
軍人勅諭の重要なところは、天皇に忠誠を誓うとか、政治にかかわらずとか、はては軍人勅諭を大日本帝国憲法第11条によって明文化している、というような見方だけで捉えるべきではなかった。軍人勅諭は、軍人、兵士に五箇条の訓示を与えている。その中には、「軍人は礼儀を正くすへし」「軍人は信義を重んすへし」「軍人は質素を旨とすへし」といった項目がある。礼儀、信義、質素が柱である。このほかの二つは、忠節、武勇である。この五項目は、軍人、兵士の日常の規範であってもおかしくはない。兵士たちはこの復唱を日々要求された。しかし軍事指導者たちは、この五項目を日本軍の柱に据えて、天皇の軍隊と国民軍の融合を図る軍事学を模索すべきであったのだ。しかし、そういう努力はしていない。
本来なら、それこそが昭和の軍事の要諦になるべきであった。そのような歴史観が欠如していた者が指導者になったのが、昭和の軍事の最大の不幸であった。軍人勅諭と戦陣訓の関係を通して、日露戦争と太平洋戦争の相違点を見ると、それがよくわかる。(第43回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。