寺田さんが「車いすYouTuber」になるまで
生まれつき脳性麻痺の障害を持っている寺田さんだが、19歳まで車いすを使わずに生活していた。だが「傍から見たら歩き方がいびつな感じで、思春期はネガティブになり、人目を避けるようになりました」。複雑な少年時代を過ごした。
20歳の時、両親から車いすに乗ってみないかと言われたが、「僕は嫌だったんです。元々障害者ですが、自分で歩いていたので、『障害者になりたくない』みたいな気持ちがありました」。それでも親の強い勧めで車いす生活を始める。すると「革命が起きました」。
「移動できるようになったんです。歩いていた時は20メートルくらいで疲れていたのが、車いすなら2~3キロは動けます。いろんな人に言っているんですが、僕にとって車いすは『カボチャの馬車』でした。可能性を広げてくれる乗り物です」
大学2年の時、1年間の英国留学を経験。そこでブラックユーモアあふれる現地のコメディに触れ、人生観が変わる。「日本でも、障害や車いすをお笑いにできたらいいのにな」。国内でも友人らとは冗談を言い合った。しかし「その輪から一歩出ると遠慮されてしまう。英国ではそういうことがなく、いろんな立場の人が一緒に住んでいました」。帰国後に選んだ職業が「お笑い芸人」だった。
だが、先のとおり売れなかった。その後はホストも経験したが、これも挫折。路頭に迷っていた時に思いついたのが、先の「車いすヒッチハイクの旅」だった。東京と全国を行き来し、旅の様子をネットでライブ配信。そのうち「動画で記録し、いつでも見てもらえるようにしたい」と思い立ち、YouTubeへの投稿を開始する。
「町で『車いす押していただけませんか?』と声をかけ、人と触れ合う旅でした。僕はバラエティの旅番組が好きで、出川哲朗さんの『充電させてもらえませんか?』(テレビ東京)、鶴瓶さんの『家族に乾杯』(NHK)に、タモリさんの『ブラタモリ』(NHK)といった番組をよく見ます。自分もそんな旅をしていたのに『映像がないのはもったいない』と思いました。ちょうどそのころ、妻と結婚したんですが、カメラマンを雇うとお金がかかってしまうので、妻には撮影役で旅についてきてもらいました」
過密なスケジュールで運営していたが、先のとおり伸び悩む。「真夏は朝8時にホテルを出て、夕方6時ごろまでぶっ通しで撮影、夜7時から2人で編集し、翌日アップする。そんな日々で結構過酷だったんですが、まだ編集技術もなかったですし、よく考えたら夫婦2人の旅なんて誰が見たいんだろうと...」。そして「しんどい期間が半年ほど続いていた時、前澤さんの『お年玉』に当選したんです」。