埋葬地にせめて墓標を
とはいえ、現状では遺族のもとに遺骨がかえってくる確率はかぎりなく低い。
ニューギニア戦線で父親を失った遺族の一人は、痛切なおもいをこう語る。「戦後75年もたつと、父親はもう帰ってくることはないと思います。どこで死んだのかもわかりません。それぞれの人にそれぞれの名前がありました。それも全部捨てて、お国のためということで、父たちは亡くなったのです」
「一日でも早く、一柱でも多く」という訴えはそれとして、待つことにくたびれ、期待を幾度も裏切られてきた多くの遺族のこころを支配しているのは、あきらめの気持ちだ。遺族も80歳前後となり、自分が生きている間に肉親の遺骨と対面できると考える人はいまや、皆無に近いだろう。
シベリア抑留犠牲者の遺族にとってのせめてもの慰めは、全員ではないがその7割以上、約4万人が、ロシア側の資料から、肉親がどこで亡くなり、どこに葬られたかを知らされていることだ。
兄をチタ州で亡くしたある遺族は、南方戦線から生還した人から、こう言われたことがあるという。「あなたのお兄さんの遺骨は還ってこないかもしれない。それでも、戦友といっしょに葬られているじゃないか。自分たちは息絶えた戦友をその場にひとり置いて、そのまま行軍しなければならなかった、と。私のあきらめの気持ちを支えているのは、この言葉です」
多くの遺族にとって、肉親の眠るシベリアの埋葬地は、遺骨の帰還をあきらめる気持ちが強いほど、心にかかる存在なのだ。その意味で、遺骨収容の先が見えないままに、埋葬地の荒廃だけが進行するというのは、遺族にとって最悪の事態といえる。
墓標も目印もない埋葬地の多くはすでに墓地としての痕跡もなく、雑草が生い茂り、あるいはゴミ捨て場と化し、荒涼とした姿をさらしている。高齢の遺族がこの世を去れば、打ち捨てられた埋葬地を訪れる人はいよいよまれとなり、このままではやがてその存在すら忘れられてしまうだろう。
そこで、せめて位置が特定されていながら目印もなく放置されている埋葬地について、「そこが日本人の墓地だとわかるように、簡素なものでいいから墓標を建てて欲しい」と、厚労省に訴えているが、「埋葬地の管理はロシア側の責任」という回答がかえってくるだけだ、ということはすでに述べた。