「せめて墓標を」──遺骨収集にこだわる国に、シベリア抑留者遺族が訴えたいこと【71年目の死亡通知】(下)

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「身捨つるほどの祖国はありや」

   厚労省によると、父の埋葬地はロシア人墓地の中央にあり、ロシア人との混在、あるいは埋葬者がロシア人墓地の下になっている可能性があるため、これ以上の遺骨収容は困難だという。つまり、90人だけは収容できたものの、残り135人の骨はもう拾ってもらえない、ということだ。

   発掘作業が容易でない埋葬地が増えてきたことなどで、一部の遺体しか収容できないというケースが大半を占めるようになってきた。多くの埋葬地にはいまも、数十体の遺体が残されており、なかには100体を超えるところも珍しくはない。

   しかし、「埋葬地にせめて墓標を」といっても、ドイツ人墓地のように一人ひとりの墓標を建てろというのではない。こうした複数の遺体が葬られている埋葬地に、目印として簡素な墓標を1本建てて欲しいというはなしである。

   前述のように、ロシアで調達すれば、墓標は1基20万円程度、100基で約2千万円という勘定だ。これに運送費や設置費、さらに壊されたり、墓銘が剥ぎ取られたりしている石碑の修復費などを加えても、決して法外な事業とは言えないだろう。

   遺骨収集は出口の見えない状態にある。率直に言って、多くの遺体を残したまま、どこかで遺骨収集に幕を引かざるをえないのは明らかである。この現実を直視するとき、この先もシベリアで眠り続けねばならない抑留犠牲者に敬意を払うのは当然のことだろう。

   国が頼りにならないなら、遺族が協力して自分たちでやればいいという意見もあるかもしれない。

   実は当初、父の埋葬地に一緒に葬られた225人の遺族と連絡を取り、みんなの考えを聞いてみようとしたのだが、遺族についての情報を握っている厚労省はプライバシーを理由に住所を開示してくれない。

   そこで、全国の遺族会に埋葬者のリストを添えて遺族を探して欲しいと依頼の手紙を出してみたが、見つかった遺族は2人ほど、しかも協力をお願いできるような状態にはなく、この試みは失敗に終わった。

   抑留帰還者の平均年齢は96歳となり、遺族の高齢化も急速に進んでいる。もはや国が保 全に動かないかぎり、目印となる墓標もなく捨て置かれている埋葬地は、遠からず消滅してしまう運命にある。

   そうした事情を知りながら、知らぬ顔を決め込む国の態度を見ていると、国は抑留帰国者や遺族がいなくなるのを待っているのではないか、と思えてくる。

   くどいと言われることを承知で、繰り返したい。

   埋葬地に眠る人びとは、赤紙(召集令状)一枚で動員され、飢えと寒さと過酷な労働の「三重苦」に苛まれながら命を落した。だが、この人びとの多くは無縁仏ではない。アジア・太平洋地域の激戦地とは違って、その埋葬地がどこにあるのか、そこにはだれが葬られたのか、遺族たちは知っているからだ。

   ロシア側から提供された抑留犠牲者の名簿と日本側の資料との照合作業は、いまも続いている。2018年度も180人の氏名や埋葬地が新たに特定され、厚労省ホームページの「氏名50音別名簿」に追加された。

   それでも国は、抑留犠牲者たちを、ゴミの下や雑草に覆われた原野に放置し続けるつもり なのだろうか。

2019年8月時点の筆者の父の埋葬地。いまだに「ゴミ捨て場」のままだった
2019年8月時点の筆者の父の埋葬地。いまだに「ゴミ捨て場」のままだった

   荒涼としたシベリアの埋葬地を思い起こすたびに、寺山修司の歌が胸に浮かんでくる。

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」

   寺山の父親は太平洋戦争末期、インドネシアのセレベス島で戦病死した。

増子義孝 (ますこ・よしたか) 1937(昭和12)年岩手県生まれ。岩手県立大学名誉教授。1962年朝日新聞社に入社。
1970年インドネシア・ガジャマダ大学に留学。その後、社会部次長、外報部次長、アジア総局長、論説副主幹などを経て、「地球プロジェクト21」NGO・国際協力チーム主査。この間、ジャカルタ、ニューデリー、バンコクなどに駐在。
1998年4月から岩手県立大学総合政策学部教授。
主な訳著書に『スハルトのインドネシア』(サイマル出版会)、『最新アジア考現学』(朝日新聞社)、『市民参加で世界を変える』(朝日新聞社)など。

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