希薄な戦争責任意識
それにつけても、遺族としてつくづく思うのは、戦争責任に対する日本という国の意識の希薄さだ。
少し脱線するが、1945年2月4日、クリミア半島にある保養地ヤルタに米英ソの3カ国首脳が集まり、戦後の世界秩序について協議した。この会談では、表向き発表された「ヤルタ協定」のほかに、「ソ連はドイツの降伏から3カ月後に日本に対して参戦する」という密約が交わされた。
当時、スウェーデンのストックホルムに小野寺信(まこと)という岩手県出身の駐在武官がいた。外国の情報士官らから「諜報の神様」と畏敬されていた小野寺は、首脳会談の直後にこの密約を入手、暗号電報で日本の大本営参謀本部に送った。ところが、この国運を決する機密情報は、どこかに消えてしまった。ソ連の仲介で和平工作を進めようとしていた日本の政権中枢に握りつぶされた可能性が高いという(岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電』新潮選書)。
国の運命を決するような情報を闇に葬り、確かな成算もないままにずるずると降伏を引き伸ばした結果、広島、長崎への原爆投下、ソ連の参戦、そして60万の日本兵らのシベリア抑留を招くことになった。この責めはあげて国にあるにもかかわらず、真摯にその責任と向き合おうとする姿勢が見えない。
たとえば──
遺骨収集は1952年からはじまったが、当時は「象徴遺骨」と称して一部の遺骨だけを持ち帰るという方式で、1957年には遺骨収集はおおむね終了したということにされた。そして、遺族らの反発で再開される1967年まで、遺骨収集は10年間も中断された。この空白による損失は、取り返しのつかないほど大きいといわねばならない。
約240万人の日本人戦没者のうち、これまでに遺骨を収容できたのは半数をわずかに超える約128万人。だが、その7割以上が帰国兵士や引揚者が持ち帰ったり、遺族や民間団体が発掘したもので、国の事業による収容は34万人分だけだ。
2010年にシベリア抑留帰国者に対する事実上の補償として総額193億円を支給することなどを柱とする「シベリア特措法」が可決成立したが、1981年の東京地裁への提訴から補償実現まで29年もかかった。
2016年3月に議員立法で「戦没者遺骨収集推進法」が成立、「国の責務」として遺骨収集が強化されることになったというニュースにもびっくりした。恥ずかしながら、遺骨収集は当然「国の責務」だと思い込んでいて、それまでは国会決議と閣議了解にもとづくだけで、遺骨収集を国に義務づける法律がなかったとは、想像もしなかったからだ。
そして、遺骨収集が「国の責務」としてはじめて法律に明記された、とメディアがこぞって評価しているのには、むしろこの法律ができるまで戦後70年も待たねばならなかったことを批判すべきなのに、とどうにも納得がいかなかった。