消された日本人墓地
それにしても、日本人墓地はなぜ、これほどにひどい扱いを受けているのだろうか。
実は、旧ソ連指導部は自国の領土で多数の日本人が死亡した事実を隠そうとし、日本人の強制抑留や抑留犠牲者の埋葬地の問題に触れることは、ほとんどタブー視されていた。
それが、1985年にゴルバチョフが最高指導者についたことで情報公開が進み、1991年にソ連邦が崩壊すると、歴史学者を中心に歴史の見直しがおこなわれるようになった。
歴史学者で、ロシア人として初めて日本人抑留問題についての著書(邦訳『シベリアの日本人捕虜たち』1999年、集英社)を出したイルクーツク大学のクズネツォフ教授によると、第2次大戦直後、ソ連には日本人を扱う71の収容所管理局があり、内務省は定期的に各管理局に対して日本人墓地の状態を点検し、報告書を提出するよう通達していた。
ところが、日本人抑留者の大半が帰国し、1955年までに収容所が閉鎖されると、日本人墓地の管理は内務省から地方行政庁に移譲されることになった。それとともに、財政支出は削られ、墓地の管理もまったく行われないようになった、というのだ。
さらに、強制抑留により多くの死亡者を出した事実を隠そうとする指導部の意向を受けて、内務省は墓地の数をできるだけ減らそうとし、幾つかを日本代表団や赤十字代表に見せるためにだけ維持してきたという。
たとえば、1950年の段階で、イルクーツク州には81か所の日本人墓地があった。ところが、59年までに20か所が、さらに59年には55か所、61年には44か所、75年には1か所が登録から抹消され、合わせて80か所が「消滅」してしまった。
「外国人が来訪したときのために」唯一残されたのが、州都イルクーツクの「マラトボ墓地(第1218特別野戦病院の埋葬地)」だった。マラトボ墓地には406人が葬られていたが、1959年に墓の上に盛り土をし、標識を交換するなど、修理と整備がおこなわれた。その後、すべての墓にロシア語と日本語の氏名入り金属板のついた墓標が設置され、中央に慰霊碑が建てられた。
そのマラトボ墓地も2003年、遺骨がすべて収集されたとして、更地にされてしまった。
厚労省によると、約650か所の日本人埋葬地についての情報を保有しているが、これまでに正確な所在を突き止めることができた埋葬地は230か所にすぎない。約300か所については、遺骨の収集は不可能と判断しているという。
その理由として、▽資料の不備や当時を知る人がいないために所在そのものが特定できない、▽埋葬地と思われる地点が広大なため試掘してみたが、日本人の遺骨が確認できなかった、▽風水害により埋葬地が消滅してしまった、▽埋葬地の上に工場などが建っている──などを挙げているが、日本人墓地を消してしまおうとした旧ソ連の企てが大きく影を落としていることは否定できない。