荒廃進む埋葬地
無残な状態に置かれているのは、父の埋葬地だけなのだろうか。父の墓参で衝撃を受けた私は、翌日から周辺の5か所の埋葬地を訪ねてみた。
「遺族以外には公開しないことにしている」と渋る厚労省の担当者から、せっかくの機会なのでお花を供えてきたいのだ、と位置情報を聞き出していたのだ。
案の定というべきか、それぞれ133人、64人が未収容、と厚労省の埋葬地別名簿にある「第4865特別軍病院・第3墓地」と「第14収容所・第8支部」には、墓標も目印もなかった。
しかも、どちらの埋葬地も腰まである雑草に覆われており、優子さんがパソコンで位置情報を確認し、アンドレイさんが鎌で雑草を刈りながら、やっとたどりつくことができた。翌年春に優子さんが「第3墓地」を再訪してみると、埋葬地には大量のゴミが散乱し、周辺の原野は焼畑になっていたという。
74人が葬られているという「第14収容所・第7支部」には小ぶりな石碑が建っていたが、開発が進み、足元まで土砂が削りとられていた。94人が眠っているという「第14収容所・第1支部」は道路に面していて、石碑は建っていたが、やはり雑草に覆われており、石碑がなければ気づかずに通り過ぎるところだった。
唯一墓地の体をなしていたのは、270人が未収容のまま葬られているとされる「第4865特別軍病院・第2墓地」で、敷地も広くとられ、1.2メートルほどの高さの墓標が建っており、厚労省の慰霊巡拝団のお参りのコースに組み入れられているということだった。
帰国後、ほかの遺族の話を聞いたり、慰霊巡拝の記録を読んだりしてみると、多くの遺族が埋葬地のありように傷つき、やり場のない怒りを抱えていた。
「収容所の跡は草原に変わっていた。2キロほど先の埋葬地は森に覆われ、場所の特定はできなかった。大きな切り株を墓標に見立て、線香とろうそく、日本酒を供えた」
(2002年 ハバロフスク地方)
「1997年に訪れたとき、日本人墓地には石棺がずらりと並び、きちんと整備されていた。それが、7年後に再訪してみると、ロシア人の墓地に変わっていた」
(2004年 アムール地方)
「鉄道建設に酷使され22歳で亡くなった伯父の追悼に、収容所があったという村を訪ねた。荒れ果てた雑木林の中に土饅頭が40ほど見え、それが日本兵の埋葬地だと村人に教えられた」
(2015年 イルクーツク地方)
「日本人の埋葬地であるはずなのに、民間の倉庫が建てられていた。やむなく倉庫の前に祭壇を組み、追悼式をおこなった」
(2018年 アルタイ地方)
「2012年と翌13年に慰霊巡拝団に参加し、10個ほどの石碑をみてきたが、墓碑銘を刻んだ銅板がすべて剥ぎ取られて売り飛ばされ、なかには鉄骨が剝き出しになったものもあった──道なきを歩き着きたる捕虜の碑の版剥ぎ取られ傾きてをり」(2013年 プリモルスク地方)
2003年のことだが、愛媛新聞はシベリア抑留経験者らでつくる全国強制抑留者協会の慰霊訪問団に同行し、イルクーツク地方のタイシェト地区の埋葬地についての記事を連載した。
タイシェト地区といえば、4万人近い日本人がバム鉄道(第2シベリア鉄道)の建設など過酷な労働に従事させられ、3200人以上が死亡したとされる、シベリア抑留の代名詞的地域である。
同行した記者は埋葬地を見ての実感として、次のように書いている。
「タイシェト地区で回った慰霊地はどこも共通して、抑留犠牲者には墓碑も墓標もない。『墓地』と呼ぶより、語感は『埋葬地』の方が近い。その場所と態様は死者を手厚く葬ったには程遠く、犠牲者はまさしく『捨てられていた』」