シベリア抑留
シベリア抑留について、改めてその全体像を振り返っておこう。
父が満州に送られて8カ月余り経った1945年4月、旧ソ連は日本に対し「日ソ中立条約」の延長はしないと通告してきた。そのうえで、8月8日、突然に宣戦布告し、いっせいに満州、朝鮮半島北部、千島・樺太などに攻め込み、およそ60万人の日本兵らを武装解除した。
日本兵らはその後、1000人単位の作業大隊に編成され、「ダモイ・トウキョウ」(東京に帰す)という甘い言葉に乗せられ、シベリアから中央アジア、モンゴルにまで送り込まれ、森林伐採、石炭掘削、鉄道建設、道路工事など、きびしい強制労働に従事させられた。父の軍歴書には、8月18日に武装解除され、9月21日にソ連領内に移送された、とある。
旧ソ連による強制抑留は、捕虜の取り扱いを定めた「ハーグ陸戦法規」や「ジュネーブ条約」、さらには45年7月26日、米英中が日本に対して無条件降伏を求めた「ポツダム宣言」にも違反する大規模な不法行為である。
しかし、ソ連軍最高司令官のスターリンは、そうした国際法を無視して極秘指令を発令し、日本兵らの抑留を強行した。旧ソ連はドイツとの戦争で、民間人をふくめて2000万人とも3000万人ともいわれる犠牲者を出し、労働力に窮していた。スターリンは自国の復興のために日本兵らを働かせようと考えたのである。
不法に抑留された人びとの1割近く約5万5000人が、すさまじい飢え、氷点下30度を超す寒さ、過酷な強制労働の「三重苦」に苛まれながら命を落とした。
生き延びた抑留者の多くは3、4年で帰国することができたが、戦犯やソ連国内法違反者とされた長期抑留者は56年10月に鳩山一郎首相が訪ソし、戦争状態の終結、外交関係の回復などを定めた「日ソ共同宣言」が調印されるまで解放されなかった。
1991年4月、ゴルバチョフ・ソ連大統領が来日、抑留からの帰還者らと会見し、「同情の念を表します。両国間の関係改善のため、努力を誓います」と語った。
1993年10月に来日したエリツィン・ロシア大統領は「ロシア政府、国民を代表し、このような非人道的な行為を謝罪する」と、より踏み込んだ発言をした。
しかし、その後継であるプーチン大統領からは謝罪の言葉は聞かれない。また、安倍晋三首相はプーチン大統領と20回以上も会談を重ねているが、シベリア抑留問題に言及したことは一度もない。