軍人の精神的基盤はどこにあるのか。近代日本の軍人たちを縛り付けていた規範、あるいは倫理観、それを見ていくことで近代日本の軍事組織は何を目的に存立し得たのか、がわかってくる。今回は1882(明治15)年1月に明治天皇の発した「陸海軍軍人に下し給へる勅諭」(一般には軍人勅諭という)と1941(昭和16)年1月に陸軍大臣東條英機の名で軍内に発せられた「戦陣訓」とを対比させながら、天皇の軍隊と一口に言っても明治と昭和の間には大きな亀裂があったことを確認しておきたい。
「軍事先行」のツケを昭和に回す
近代日本の国家体制は明治に入ってすぐに軍事が先行する形で進んだ。明治10年の西南戦争や明治10年代の自由民権派による反政府闘争などに、新政府は軍事で常に抑圧を続けた。まだ憲法も制定されていないうちに軍事は独自に軍内法規を作り、組織原理を確立し、そして「天皇の軍隊」であることを明言して国家的エリート機関としての存在を誇ることになった。政治よりも軍事が優先している国家、という意味では、日本は後世に多くのツケを残したと指摘できるであろう。そのツケが昭和には浮上してきたと言えるのである。
あえて付け加えておくのだが、歴史には「可視」の部分と「不可視」の部分があり、いわば軍人勅諭にせよ、戦陣訓にせよ、それ自体は可視の文書である。しかしこの二つの文書によって、軍人の心がまえがどのように下士官、兵士たちに心理的な呪縛を強いたかは不可視の領域である。その両面を分析するのが本稿の目的でもあるのだが、前提として理解してべきおくことは次の二点である。
(1)平時と戦時の違いの中にある倫理観、規範をどのように理解するか。
(2)軍人教育の要諦はどこにあり、その目的は何であったのか。
この二つは図らずも軍事を優先してしまった国家の抱え込む基本的な命題である。この命題にいかなる答えを出すのかが、近代日本史の役目だったと言っていいように思う。