保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(39)
「戦陣訓」が「魔の呪文」だった理由

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石原莞爾「こんなもの読む必要はない。倉庫に積んでおけ」

   陸軍内部に示達されると、ちょうどこの頃は東條が陸軍の権勢を握りつつある時で、各地の師団長や連隊長が率先して普及の役割を引き受けた。例えば兵士たちに、毎朝この戦陣訓のエキスを復唱したり、筆記させたりして東條のご機嫌を伺う高級将校もいた。自分の部隊の兵士に「戦陣訓レビュー」と称して足を上げて踊らせる者もいた。京都の師団長だった石原莞爾は「こんなもの読む必要はない。倉庫に積んでおけ」と命じて素知らぬ態度で接した。すでに日本軍は、「軍人勅諭」があるではないかというのであった。石原のような少なくとも理論を持つ将校は、これは胡散臭い通達だと知っていたのである。

   さて太平洋戦争では、この戦陣訓は戦場にあっては身を正せと言った良き風潮に使われたこともある。その反面で1943(昭和18)年5月のアッツ島玉砕から始まって、10を超える戦場での玉砕を生み出している。この全てに「戦陣訓」が果たした役割は大きかった。玉砕を避けて捕虜になったり、撤退したりすると悪し様に「卑怯者」と難詰されたりもした。東條や今村にはその責任もあると言っていいだろう。東條は特別にその責任を取っていない。それに比べると、今村は責任を痛感していたらしく、「あの戦陣訓は誤りだった。もっと具体的に、ものをとってはいけないとか、乱暴をするな、などと指摘をしておくべきであった」と漏らしている。そうした反省ははっきりとは語られないにしても、今村は戦後の自著の中で語ってもいる。その反省が救いといえば救いである。

   今村は1942(昭和17)年11月から第八方面軍司令官のポストに就いた。ガダルカナル戦の撤退などで冷静な判断をする司令官であった。戦後はBC級戦犯にも問われたが、その部下思いの服役態度はアメリカ側を感心させている。それだけに戦陣訓の考案の責任者と言われるのは不本意なのであろう。(第40回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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