中曽根康弘氏、自ら遺した「誤算」の記録 オフレコメモが語る「靖国公式参拝」...85年夏、何が起きていたのか

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   「これだけ検討したんですから」「対外的にはさほどの影響はないだろう」――1985年8月15日に中曽根康弘首相(以下、肩書きはいずれも当時)が戦後の首相としては初めて靖国神社を公式参拝した際に政府・与党の幹部とみられる人物が発した言葉だ。

   これらの言葉は、中曽根氏が国立国会図書館(東京都千代田区)に寄託した大量の文書の中に含まれていた。文書の内容は、講演のための原稿や、政治家や文化人と交わした書簡、メモ書きが入った記者会見の資料など。その中には新聞記者の取材メモをとじ込んだ大量のファイルもあり、中曽根氏自身のものを含めて、大量の政治家の発言が含まれている。いわゆる「オフレコメモ」が公開されるのはきわめて異例だ。

   靖国神社への公式参拝については、当初は近隣諸国からの反応をきわめて楽観視。86年以降も公式参拝を続ける意欲を見せていた。だが、実際には中国からの反発が予想外に強く、結局は85年の秋の例大祭や86年の終戦記念日の参拝を見送っている。

   中曽根公式参拝から35年。一連の経緯を「中曽根文書」を通じて読み解く。

  • 1985年に靖国神社を公式参拝する中曽根康弘首相(当時)(写真:AFP/アフロ)
    1985年に靖国神社を公式参拝する中曽根康弘首相(当時)(写真:AFP/アフロ)
  • 1985年に靖国神社を公式参拝する中曽根康弘首相(当時)(写真:AFP/アフロ)

「全部出さないと公正な判断ができない」遺した大量の記録

   資料は中曽根氏が塾長を務めた「青雲塾」(群馬県高崎市)などで保管。14年3月に国会図書館と計3875点について寄託契約が結ばれ、分類作業を経て19年8月に2194点が憲政資料室で公開された。中曽根氏は『自省録―歴史法廷の被告として―』(新潮文庫)で、「政治家の人生は、そのなし得た結果を歴史という法廷において裁かれることでのみ、評価される」とつづっており、資料を寄託することで自らの業績の検証を後世に委ねる狙いがあるとみられる。毎日新聞(18年7月23日朝刊)によると、資料の寄託にあたって秘書が「出したくないものはどうするか」と尋ねると、中曽根氏は「いいところだけ出すと、ゆがみを生じる。全部出さないと公正な判断ができない」と答えたという。

   中でも目を引くのが34冊もある「情報簿」だ。ところどころ途切れている期間はあるものの、1983年から10月28日から87年11月5日にかけて、政治家の発言とみられる内容が収録されている。その多くが「日時、取材対象者、取材形式、記録者」のフォーマットに沿ったメモだ。とじ込まれているものの多くが手書きメモのコピーだが、手書きのものや、感熱紙のものもある。

   82年11月27日から87年11月6日まで続いた中曽根内閣での大きな出来事のひとつが靖国神社への公式参拝だ。一連のメモには、政府・与党内の率直な声が記されている。

   中曽根氏は首相就任後も83年、84年と靖国神社に参拝してきたが、84年には日本遺族会メンバーが公式参拝を求めて靖国神社境内で断食する騒ぎがあり、公式参拝にかじを切った。当時の内閣法制局は、公式参拝には憲法違反の疑いがあるとの立場で、藤波孝生官房長官が84年8月に「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)を設置。85年8月9日に出された報告書では、(1)大方の国民感情や遺族の心情をくむ(2)政教分離原則に関する憲法趣旨に反しない(3)多数の国民に支持、受け入れられる形で「実施する方途を検討すべきである」とした。そこで、神道を奨励したり、他の宗教を妨害したりしようとしていると受け取られないように(1)昇殿はするが奥には入らない(2)二礼二拍手一礼しない(3)神職のお祓いも受けない、という参拝形式でバランスを取ろうとした。

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