SUBARU(スバル)と子会社のスバルテクニカインターナショナル(STI)は、スバルのスポーツカー「WRX」のオーナーを中心とする「WRXファンミーティング」を愛知県新城市で初めて開いた。全国からWRXが約1000台集まり、スバルやSTIの開発エンジニアらと交流を深めた。
自動車メーカーが1000台規模の愛車オーナーを集め、親睦会を開くのは珍しい。スバルは世界の販売台数が年間100万台規模の中堅メーカーだが、「スバリスト」(米国では「スービィー」)と呼ばれる熱狂的なファンを持つ特異なメーカーだ。
「冬の時代」にあっても売れ続ける名車
その中でもWRXはスバルのスポーツカーの頂点に立つフラッグシップモデルで、世界中に多くのファンがいる。それは世界ラリー選手権(WRC)で総合優勝、ドイツ・ニュルブルクリンクの24時間耐久レースでクラス優勝するなど、モータースポーツで活躍した影響が大きい。このため、「若者の自動車離れ」「スポーツカー冬の時代」などと言われる昨今でも、毎月コンスタントに売れ続けている。
かつてWRXには「三菱ランサー・エボリューション」(ランエボ)というライバルがいて、人気を二分したが、ランエボが「お家の事情」で生産終了となってからは、2リッターターボ・AWD(4輪駆動)のスポーツカーは世界的にも少数派となり、WRXの独壇場となった。
会場となった愛知県新城市の「ふれあいパークほうらい」には、1992年デビューの初代「スバルインプレッサWRX」から、4代目となる現行の「スバルWRX」まで、オーナー自慢の愛車が勢ぞろいした。当初、スバルは「800台を目標に抽選を行う」とアナウンスしていたが、結果的にそれを上回る1000台となった。
今回、スバルがWRXのファンミーティングを初めて開いたのは、1989年発売の「レガシィ」以降、スバルの大黒柱だったEJ20型水平対向エンジンが年内で生産終了となり、後継のFA型、FB型水平対向エンジンに世代交代するためだ。主催者は「長年にわたりWRXをご愛顧頂いているお客様に感謝の気持ちをお伝えし、スバル・STI関係者とWRXに対する熱い想いを共有したい」とあいさつした。
関係者によるトークショーも
スバル関係者によると、「WRXはスバルのアイコン」で、スバルに入社する開発エンジニアの多くは「いつかWRXを設計・開発したくて入社する」という。日産に入社するエンジニアが「GT-RやフェアレディZを担当したい」と思うのと同じだそうだ。
とりわけ2008年のリーマン・ショック後、スバルが世界ラリー選手権(WRC)から撤退した後、歴代社長がマスコミのインタビューなどで「WRC復帰」に関する発言をすると、社内が浮足立つため、社長が安易な発言を慎んでいたという話は有名だ。それだけスバル社内にはWRX好きが多く、エンジニアが作りたいクルマを作り、ファンに支持されてきたといえる。
会場では、スバルの開発エンジニア出身で、STI社長の平岡泰雄氏、初代レガシィの開発テストドライバーとして活躍した辰己英治氏(現在はSTIレース部門の総監督)らが登壇し、トークショーを行った。
平岡氏は「(1966年発売の)スバル1000からスバルは水平対向エンジンだが、スバルは中島飛行機がルーツだ。飛行機のエンジニアにとって、運動性能は命で、水平対向は必然の選択だった」と述べた。
辰己氏は「(レガシィの前モデルの)レオーネは舗装路を軽快に楽しく走るクルマではなかった」「もしもレガシィが直列エンジンを選んでいたら、今みなさんはここにいなかっただろう」などと述べた。さらに辰己氏は「低重心のシンメトリカル(左右対称)AWDとして、ハンドリングのよいクルマを作ろう」というのが、初代レガシィの命題だったと振り返り、初代レガシィが今日のスバルを築いたとの考えを示した。
このほか、2003年に世界ラリー選手権で総合優勝したスバルのエースドライバー、ペター・ソルベルグと、先輩のトミー・マキネンもスペシャルゲストとして登場。ペターは3代目WRXのラリー仕様車でデモ走行を披露。ラリーで優勝した時、前輪をコンパスの針のようにして、後輪で円を描く「ドーナツターン」を披露し、ファンの声援を浴びた。
参加した1000台のWRXオーナーは総じてマナーがよく、会場内はもちろん、帰路の高速道路でも折り目正しい走りをしていたのが印象的だった。