国際政治学者として上智大学などで長く教え、国連人権委員会日本政府代表、国連難民高等弁務官など国連機関でも活躍した緒方貞子さんが2019年10月22日、死去した。92歳だった。かつて理事長を務めた国際協力機構(JICA)が29日、発表した。
アフガニスタン復興支援国際会議共同議長なども務め、悲惨な紛争現場に足を運んで国際貢献や援助問題で力を尽くした。国内外にハイレベルな人脈を持ち、高い識見とバランス感覚、深いヒューマニズムで信頼を得ていた。近年の日本女性では最も厄介な国際的難題に立ち向かい、重責を果たした人だった。世界各地から、緒方さんを悼む声が寄せられている。
市川房枝さんに頼まれた
1927年、東京生まれ。曽祖父は犬養毅首相。祖父は元外交官で外務大臣。父も外交官。幼少時は父の赴任先の米国や中国ですごした。曽祖父が5.15事件で暗殺されたときは4歳で、米国にいた。
小学校4年の時に帰国し、初めて日本の学校に通う。聖心女子学院の専門学校に入り、戦後の新学制で聖心女子大の一期生に。米国人の女性学長に大きな影響を受け、カトリック教徒になった。同級生30人の中には、のちにイタリア文学者となった須賀敦子さんもいた。半数がのちに留学したという。
緒方さんもまず米国のジョージタウン大へ。そのあと、カリフォルニア大学バークレー校の大学院で外交政策決定過程論を学び、博士号を取得した。1950年代後半から、日米の第一級の学者を集めた研究会に主要メンバーとして何度も参加し、学者としてのネットワークを広げた。上智大学教授・国際関係研究所長などを務めた。
国際機関の仕事をするようになったのは68年から。参議院議員だった市川房枝さんを通して外務省から頼まれたのがきっかけだ。国連公使、国際連合児童基金(UNICEF)執行理事会議長、国連人権委員会日本政府代表、国連難民高等弁務官、アフガニスタン支援政府特別代表などの大役を次々とこなした。近年、国際機関で働く日本女性が少しずつ増えているが、常にその目標となっていた。03年から12年まで国際協力機構理事長も務めた。
99年に朝日賞特別賞。03年に文化勲章。そのほか米国、フランス、ドイツ、ロシア、インド、メキシコなど多数の国から様々な賞を受賞している。
博士論文のテーマは「満洲事変」
曽祖父が青年将校らに暗殺され、戦前に外交官だった祖父や父も「反軍部」だったという緒方さん。「日本はなぜあのような戦争に突入したのか」という疑問は、一族の思いでもあった。そんなこともあり、博士論文のテーマは「満洲事変」。関東軍の若手参謀の詳細な日誌を入手し、米国仕込みの最新の研究手法でダイナミックに分析した。
単に「軍部が悪かった」と決めつけるのではなく、関東軍の考えを「社会主義的な帝国主義」と位置付け、思想的な側面にも切り込んだ。すぐに米国で出版され、66年に『満州事変と政策の形成過程』として日本でも出版された。2015年には中国語版も出た。
名門の出身で、語学力も並外れていたこともあって、「日本代表」として多数の国際機関に関係したが、「自分から手を挙げた仕事はあまりなかった」。しかし、仕事を始めると、俄然ファイトがわいて、次第に天職のようになり、全力投球することになったと振り返っている。
夫の緒方四十郎さん(1927~2014)は日本銀行理事、日本開発銀行副総裁などを務めた銀行マン。義父の緒方竹虎は、朝日新聞社副社長・主筆、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任し、吉田茂のあとに自由党総裁にもなった。戦争と戦後の復興に深く関わった人物だ。
夫が元気だったころ、『二人の昭和史』という本を書いたら面白いかもしれないと話し合ったことがあったという。昭和の政治史と、両家の個人史を重ね合わせるとなかなか面白いのではないかと。構成をいっしょに考えたりしていたが、二人とも忙しくていつの間にか立ち消えになったという。
四十郎さんが亡くなった後に刊行された『緒方貞子回顧録』(岩波書店)で夫についてこう語っている。
「私が日本を離れていろいろな仕事を続けられたのも、緒方のサポートがあったからです。向こうがどう思っているかわかりませんが(笑)、パートナーとして感謝してもしきれないと思っています」