今から110年前、1909年10月26日は、ハルビン駅(当時は清。現在は中華人民共和国)で、初代内閣総理大臣などを務めた伊藤博文が、韓国人の民族運動家・安重根に暗殺された日だ。
日本の近代化に大きな足跡。一方で...
伊藤博文は1841年9月2日、長州藩周防国(すおうのくに)に農民の子として生まれた。
57年、16歳の博文は吉田松陰が主宰した私塾「松下村塾」に入門し、高杉晋作らと学び、討幕運動に参加。
幕末になると、英国に留学。大久保利通が亡くなった後、政権内で権力を手にすると、憲法制定の中心となり、立憲政治の基礎を固めた。85年、初代内閣総理大臣に就任し、88年に初代枢密院議長、90年には初代貴族院議長を歴任。1905年初代韓国統監となり、最後は09年にハルビン駅頭で射殺されたのは前述の通りだ。
明治維新後、日本の近代化に大きな貢献を果たした伊藤博文だが、裏の顔として、人一倍女好きだったことが伺えるエピソードが数多くある。
文芸評論家の末國善己著「夜の日本史」(幻冬舎文庫)から一例を紹介しよう。たとえばジャーナリスト・黒岩涙香が経営していた「萬朝報」の1898年7月13日付記事では、伊藤家に出入りしていた土木業者の娘たちが美人だったので、「長女の喜勢子」を妾にしたと伝えている。
3人の姉妹を次々と...
ただ、その長女がすぐ病気で亡くなってしまい、今度は「妹なるつね子という美人」を妾にしたという。
しかし、その次女も19歳の若さで急逝。それでも伊藤は「三女の雪子16歳」を手に入れようとした。
2人の娘が早逝した父親は、今回ばかりはさすがに難色を示したというが、伊藤は金に物を言わせて、説得したといわれている。
当時、伊藤は還暦間近。それが娘どころか孫にあたるぐらいの年齢の少女に執着していた。
輝かしい経歴に隠れて、若い美人に目がなかった伊藤博文。当時の新聞では、連日女癖の悪さを報じられていたのである。
伊藤のジョークきっかけに誕生した?もみじ饅頭
もう一つ、伊藤のエピソードを紹介しておこう。
伊藤は、広島・宮島の名所、紅葉谷をよく訪れていた。あるとき、茶店で一休みしていると、お茶を差し出したのがかわいらしい若い女性。伊藤は、
「この紅葉のような可愛い手を食べてしまいたい」
と、女好きらしくジョークを飛ばした。
この話を聞いたのが、地元の和菓子職人・高津常助。伊藤の冗談から発想を得た高津は、紅葉をかたどったお菓子を作って売り出した。
これが、今や広島を代表する銘菓「もみじ饅頭」だというのである(高津堂ウェブサイトより。なお、もみじ饅頭の発祥には諸説あり)。