京都大学客員准教授で投資家の瀧本哲史(たきもと・てつふみ)さんが2019年8月10日午後、都内の病院で死去した。47歳だった。8月16日、京大が明らかにした。死因は非公表。葬儀は近親者で行った。
麻布高校を経て東大法学部卒。学部卒からそのまま東大助手に採用されるエリートコースを進むも、大学教員という職業の将来性のなさを見越して、戦略コンサルのマッキンゼー&カンパニーに転じ、主にエレクトロニクス業界を担当。独立後はタクシー大手の日本交通の経営再建に携わり、エンジェル投資家として活動した。オーディオブック大手「オトバンク」には2004年の創業時に出資し、監査役や社外取締役を歴任した。
2011年9月に『僕は君たちに武器を配りたい』(講談社)、『武器としての決断思考』(星海社新書)を出版。いくら能力が高くても他と差別化ができない「コモディティ化」に警鐘を鳴らし、ベストセラーになった。12年にはツイッターを活用したNHKのニュース番組「NEWS WEB 24」のネットナビゲーター(コメンテーター)も務めた。
教育事業にも数多く携わった。1996年に始まった中高生向けディベート大会「全国中学・高校ディベート選手権(ディベート甲子園)」の立ち上げに関わったほか、京大では起業論などを担当し、インカレの自主ゼミでは政策をめぐる意思決定のあり方などを説いた。
答えが分からないことを仮説検証して議論
様々な事業に関わった瀧本さんだが、
「わりと、小さく張って、失敗したものは消して、成功したものに大きく張る。満足したものは売ってしまう」(2012年、NHK出版『ジレンマ+』)
のが特徴だ。そんな中でも長い時間にわたって関わってきた数少ない事業のひとつが日本語でのディベート教育だ。
「ディベート」とは、大きく(1)「論題」と呼ばれるテーマの是非をめぐり(2)「肯定」と「否定」の2つの立場にランダムで分かれて(3)「フォーマット」と呼ばれる発言の順番や時間に従って自分の立場の優位性を主張し(4)審判がどちらの議論が優れていたかを判定する、という競技。瀧本さんは、「答えが分かっていること」に向けて努力しても「コモディティ」にしかならない一方で、ディベートを通じて「答えが分からないことを仮説検証して議論する」訓練をすることが付加価値を生むと訴えてきた。
瀧本さんは東大で弁論部に所属し、弁論やディベートを経験。1995年、授業でディベートを普及させようとしていた学校教員がパソコン通信のフォーラムで議論していたところ、東大助手だった瀧本さんが「乱入」、ディベート理論を説いた。その後「ディベート甲子園」立ち上げの議論が加速し、1996年に第1回大会を開催。2019年8月10~12日に第24回大会が開かれたばかりだ。年によって関与に濃淡はあったものの、瀧本さんは主催者や審判として参加を続け(筆者も15年以上運営に携わっている)、ツイッターや著書で意思決定の訓練としてのディベート教育の有用性を強調し続けた。前出の「武器としての決断思考」は、その内容の多くがディベートに関するもので、著書のタイトルにある「武器を配る」という言い回しは、出版以前から瀧本さんが繰り返し口にしてきた。「ディベートを始めたばかりの学校には『武器』を配るべきだ」、といった具合だ。
議論のテーマが参加者の進路選択に影響
「教育イベントの成果は、そのイベントに参加した若者の人生、進路、価値観にどのようなインパクトを与えたかで評価されるだろう」(2011年・ディベート甲子園プログラム)
というのが瀧本さんの持論だ。実際、ディベート甲子園での経験が参加者の進路選択に影響するケースは多い。例えば「安楽死合法化」論題を機に医療問題に関心を持って医師になった人、「遺伝子組み換え食品」論題でバイオテクノロジーに興味を持って製薬会社に就職する人、「原発廃止」論題を機に電力会社に就職する人などだ。議論を通じて意思決定をするというディベートの発想自体に興味を持ち、法曹の道に進む人も多い。
ここ数年は瀧本さんがディベート甲子園の会場に姿を見せることは減っていたが、ツイッターでは繰り返し言及。19年7月15日にも、
「気力、体力の有り余ってるときに、いくらでも打ち込めるチーム競技をやるのは、とても良い投資で、ディベートは勝敗がどうであれ、有力なオプションだと思います。アラムナイ(※編注:OB・OG)の活躍がそれを証明している」
と書き込んでいた。最後の更新は8月8日。ディベート甲子園に出場する選手を応援したり、見学を勧めたりする書き込みのリツイート(拡散)だ。19年の大会が開幕する2日前のことだ。
(J-CASTニュース編集部 工藤博司)