J-CASTニュースでは「広告炎上」と「ジェンダー」をめぐる問題を、3回にわたって取り上げてきた。前回の記事では、大妻女子大の田中東子教授(メディア文化論)に、「ジェンダー炎上」にはどんな種類があるのか、問題点はどこにあるのかなどを聞いた(前回記事参照)。
一方で世論調査などでは昨今の「ジェンダー炎上」に対し、一定数の懐疑的な声がある。前回のインタビューで田中氏はこうした声に反駁したが、いったいどのような論点があるのだろうか。議論を掘り下げるべく、
『欲望会議「超」ポリコレ宣言』(2018、KADOKAWA)著者の現代美術家でフェミニストの柴田英里氏に見解を聞いた。
(聞き手・構成/J-CASTニュース編集部 田中美知生)
「速すぎる」炎上スピード
――一連の「ジェンダー炎上」では、企業側が相次いですぐに広告を取り下げています。また、謝罪にいたるケースも多いです。
すぐ取り下げてしまうことに関しては、非常に遺憾だとは思っていますが、他方で企業としては取り下げざるをえない状況だと思うんですよね。ロフトの「ズッ友」広告などもそうですが(※編注:ロフトがバレンタインデーに合わせて展開した広告で、女性5人が不仲だと示唆するシーンをめぐって、「女性蔑視」などとする声が相次いだ、第2回参照)、本来であれば企業は理念を持って広告を作っているわけで。企業側が何も考えずに広告を打っているのだとしたら批判されても仕方ありませんが、クリエイターを選んで、ある理念のもとに広告を打ち出しているのであれば説明する時間が必要なはずです。だけど、ネットで炎上するとスピードが速すぎて、事実よりも誇張されて「こんな企業は本当に最低だ」という風評が広まり、不買運動の呼びかけなどとても経済的ダメージが大きいため、「とりあえず取り下げるしかない」となってしまう。
最近は謝罪をしなければならない風潮になっているけれど、謝罪ですら批判の対象にされるものがあると思っています。明確に差別である表現はほとんどなく、ある種の女性の生き方を描いたものが多いので、すべての女性を不快にするというわけではないのです。まずそれを楽しめる男女いろんな人がいて、そう思わなかった人に対して「一部の人を不快にさせて申し訳ありませんでした」ということしか本来であれば言えないんですよね。企業が「ジェンダー的に正しくない」というような批判をたくさん浴びるようになり、批判者の言うジェンダーステレオタイプ批判の文脈で、あるいはジェンダーギャップ指数149か国中110位の国の中での表現として正しくありませんでしたというような謝罪に書き換わってきていると思います。
「一次情報」を見る前にバイアスがかかってしまう
柴田氏は、「特に今はインターネットで、ジェンダー表象をフェミニズムやジェンダースタディーズの視点から批判することが一種のブーム。単なるブームとしてなら、賛否両論あるはずなんですけども、特にジェンダーフェミニズム問題となってしまうと、一元的にそれが正義と解釈されてしまう。実際はもっと精査しなければならないのに、『女性蔑視的な視点』だと、精査や批判することすら許されなくなってしまっている現状がある」と分析する。
――ジェンダー炎上が先にブームになっているという話だったが、背景の一つとしてSNSの発達が大きいのでは。
SNSの発達はコントロールできない状況です。「男女平等をもっとしていきましょう。差別をなくしましょう」。これは正しい理念ですよね。ですが、正しい理念が印籠になってしまっているがゆえに、内容が精査されない状況なのだと思います。
「働く女は、結局中身、オスである」という広告(※編注:女性誌「Domani(ドマーニ)」の働く母親をターゲットにした広告に対し、「制作者側の意識の低さと古さを感じる」などと批判の声が上がった、第2回参照)もそうですが、結局なんでも女性差別的に見ようと思えば見られるわけですよ。「Domani(ドマーニ)」のコピーは、本来ならば女性らしく振舞い、毎日きれいにお化粧するなどしたい人が、日々の慌ただしさで結局おろそかになってしまうような、自分の中の何となくの居心地の悪さを肯定するための言葉でもあります。働いているんだから仕方がないという、自分で自分を納得させる言葉です。「いまさらモテても迷惑なだけ」も、既婚女性が働くうえで無駄なトラブルを起こしたくないという素朴な感覚だと私は思うんです。批判者側にある、誰もが納得する画一的な生き方や考え方があるという考え方そのものがおかしいわけですよ。
一次情報の表象を見る前に、「なにかとても悪いことが起きているんだ」と印象操作やバイアスがかかってしまいます。(反対の)署名や異議申し立てそのものが扇情的なんですよね。一次情報である表象と、二次情報である表象批判が精査されずに、苦情を訴えた行為だけがツイッターや署名の人数なりで膨れ上がっていく。
ステレオタイプな観念もなく何かを欲望することって不可能だと思うんですよね。見たものなどを類型化して想像するというのが、人間の想像力の根本であると思います。全くステレオタイプな表現がだめとなったら、人間の性差を描くことはできなくなります。もう偶像崇拝の禁止ですよね。あるいは、性別も分からないような動物?そういうものでしか表現ができなくなってしまう。それを表現する人がいてもいいのですが、すべての人がクリオネやスライムでしか表現できないとなったら、それは読者にとっても、表現者にとってもうれしくない時代ですよね。そういうことをとりわけ作家だったら、もうちょっと考えてほしいなと。
実はこういうことは、1890年代くらいのイギリスで、第一波フェミニズム運動の中の女性小説家の間で起こっているんです。フェミニスト的な作家たちが「ステレオタイプな表現はやめよう」とか、「男女非対称な欲望を抱かせてしまうような表現はやめよう」と(運動して)なった結果、その人たちは結局、ほとんど作品を残せなかったんですよね。それまで、美術家や小説家などの表現する女性作家たちは、女性性によって社会から表現を狭められてきたんですよ。表現者であることよりも女性であることに重きが置かれていたために「その表現は女らしくない」「そもそも創作行為は女らしくない」と縛られ、男性作家より劣位に置かれていた。19世紀後半のフェミニスト作家たちは、その状況そのものに異議申し立てをするのではなく、男性作家にも同じように節制することを求めた。男性も同様に、女性と同じくらい規範的になるべきであると主張したんですよね。
そうした運動に対して、1950年代以降、フェミニストや女性作家たちが批判しています。1974年に、レベッカ・ウェストという小説家・批評家は、女性自身の女性観を根本的に変えようとしたフェミニスト作家の改革は失敗したという趣旨の批評「そしてみんな不幸せになりましたとさ」において、「「現代女性作家という講義を聞き終わってみると......ああ、私を騙さないで、ああ、私を捨てないで、どうしてかわいそうな娘をこんなにひどい目に合わせるの?」と歌う女性の大合唱を聞いたみたいな気分になります。」と書いています。フェミニズム文学の歴史と批評に関しては、E・ショウォールター『女性自身の文学 -ブロンテからレッシングまで』(みすず書房、1993年)が詳しいです。
表現規制は絶対だめだというのが過去90年代くらいまでのフェミニズムやクィア・スタディーズの基本姿勢だったのですが、最近は、簡単に言えばミシェル・フーコー、ルイ・アルチュセール、ジュディス・バトラーの権力批判の観点から中国共産党モデルに移行したのではないかと思っています。
「女は男の三歩下がって歩け」というように、美徳とされていた規範を必然的に疑うというのがフェミニストの基本姿勢だったのですが、最近は規範によって男女を平等にしようという流れに180度方向転換してしまったのです。現状の社会自体がとても規範的になっていますが、規範そのものが差別的な価値観を孕むということに無自覚です。
今は規範的じゃない振る舞いに対して社会全体が、特にSNSが発達して罰を与えられるようになってしまった。「規範を守らない人間は罰されて仕方がない」。それがSNS上の娯楽になってしまったのがあると思います。
「悪いものを批判するよりもいいものをほめる方がたくさんいろんなものが出てくる」
――1回炎上すると、ネットユーザー全体が批判しているのかと思いがちだが、実際少数なことが多く、3%くらいしかいないという統計もあります(文化庁が実施した、2016年度『国語に関する世論調査』(17年2月~3月調査。調査対象総数3566人、有効回答数2015人)では、炎上に関する設問がある。それによると、炎上状態にあるアカウントなどを見たとき、書き込みや拡散などを「大体すると思う」(0.5%)と「たまにすると思う」(2.2%)を合わせた「すると思う」は計2.8%だった)。
炎上で燃やしている人が3%、炎上を見る人が20%だとして、ほかのネットなんかそもそも見てない・ネットは使うけど炎上のことは興味ないから調べないという現実の約80%の人たちも炎上で作られた噂やデマには影響されてしまう。ネットの中で炎上が鎮火されて、情報の正誤がインターネット炎上に関心があるユーザーたちには共有されても、ネット炎上に関心がない80%の世の中の人たちは、炎上のもたらした噂やデマには気づかないままです。
――問題視されている一次情報の広告を見ず、インフルエンサーの投稿をリツイートしたり、いいねを押したりして「加担」する人もいるかもしれません。一般のユーザーにはどんなリテラシーが求められるでしょうか。
本当に多様な表現を求めるのであれば、悪いものを批判するよりもいいものをほめる方がたくさんいろんなものが出てくると思います。自分が市民社会の中に参加するというのはクレームや批判というようなネガティブな行動だけでなく、ポジティブなアクションもできます。どちらを選ぶのも自由ではあるけれど、個人的には多様なものをみたい、多様なものを守りたいと思ったら、やっぱりいいと思ったものを評価する目線も必要なんじゃないかなと。
いいものを「いい」というのも、悪いものを「悪い」というのも自分自身の快楽ではあるので、自分自身の快楽ということを考えることが重要なんじゃないかなと思います。