1964年の雑誌が掲載した、ジャニー喜多川さん32歳の顔写真

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   「ある日、急にミュージカルチームをやってみたくなって、みんなに相談したんです」――そんな談話とともに掲載された、一枚の写真。集合写真から切り出されたものだろうか。サイドをすっきり切りそろえた髪型。通った鼻筋。穏やかそうな目元。

   のちのジャニーズ事務所社長、ジャニー喜多川さん32歳の姿である。掲載したのは、当時人気だった少女向け雑誌「女学生の友」(小学館)1964年4月号だ。

  • 「女学生の友」(小学館)1964年4月号より引用。ジャニーさんの写真が掲載された数少ないメディア
    「女学生の友」(小学館)1964年4月号より引用。ジャニーさんの写真が掲載された数少ないメディア
  • 「平凡」(平凡出版)1965年3月号より引用。絵物語「四つの夢に乾杯」より引用。明示されていないが、後ろ姿で描かれている男性がジャニーさんとみられる。絵はイラストレーターの故・石原豪人さん
    「平凡」(平凡出版)1965年3月号より引用。絵物語「四つの夢に乾杯」より引用。明示されていないが、後ろ姿で描かれている男性がジャニーさんとみられる。絵はイラストレーターの故・石原豪人さん
  • 「女学生の友」(小学館)1964年4月号より引用。ジャニーさんの写真が掲載された数少ないメディア
  • 「平凡」(平凡出版)1965年3月号より引用。絵物語「四つの夢に乾杯」より引用。明示されていないが、後ろ姿で描かれている男性がジャニーさんとみられる。絵はイラストレーターの故・石原豪人さん

65年にはすでに「写真拒否」

   2019年7月9日、87年の生涯を終えたジャニーさんは、自らの写真がメディアに掲載されることを、頑なに拒んだことで知られる。すでに1965年の「週刊サンケイ」では、

「喜多川氏の写真は、本人の写してもらいたくないとの希望で掲載しません」

との但し書きがある。この32歳当時の写真は、2012年版ギネスブックに掲載されたものと並ぶ、数少ない例外だ。

   この1964年という年は、ジャニーさんにとって、その後の人生を決める「ターニングポイント」だった。

   ジャニーさんは米ロサンゼルスで、日本人僧侶の次男として生まれた。戦後、父の故郷・日本で、米大使館などで働くようになる。その傍ら、自らの名を付けた少年野球チーム「ジャニーズ」を立ち上げ、そこから同名の男性アイドルグループ「ジャニーズ」が誕生する――。

   そのジャニーズが芸能界に本格的に打って出たのが、1964年なのである。父の縁で50年代から、エンターテイメント業界とかかわりを持っていたジャニーさんにとっても、この年はある意味で「デビュー」を果たした年と言っていい。

   この年の芸能雑誌や少女雑誌には、売り出し中のアイドルとして、ジャニーズの特集記事がたびたび組まれている。それらの記事を見ると、ジャニーさんの名前は毎号のように登場する。その描写からは、ジャニーさんの「原点」がうかがえる。

東京代々木の「ナイス・ガイ」

   たとえば、「ミュージック・ライフ」64年11月号は、ジャニーさんをこう描写している。

「よく世の中には、三度の飯より野球が好きとか、プレスリーを一日に一度きかないと寝つきが悪いというような、ウレしい人がいるものですが、この二つを同時にあわせ持ったようなナイス・ガイが、東京代々木に居たのです。
   その人の名はジャニー・H・喜多川氏(※編注:ジャニーさんの日本名は擴(ひろむ))、その名前でわかるように、ミスター喜多川氏は、ロサンゼルス生れの二世でした」

   その「ナイス・ガイ」はあるとき、野球チーム「ジャニーズ」に出入りしていた4人の少年を、ある映画に連れていく。

「『君たちにすばらしい映画を見せてやろう。「ウエスト・サイド物語」、ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルを映画化したものだ。ダイナミックな踊り、唄、演技、こいつは野球よりおもしろいかも知れないよ』
   喜多川さんは、興奮していた。(中略)ポカンとしたのはジャニーズのめんめんだが、狐につままれたような気持ちで『ウエスト・サイド物語』を見に行った」(「週刊明星」64年7月号)

   映画に感化された4人は、芸能界を志す。だが、まったくの未体験だったダンスには、しり込みすることもあったようだ。ジャニーさんはこう叱咤激励する。

「喜多川さんには自信がありました。『15、6歳ごろの吸収力は人生で最高』というのが喜多川さんの、かねてからの持論なのです。『このとしごろでやってやれないことはひとつもない。きみたちだけができないわけはない。チャキリス(※編注:「ウエスト・サイド物語」に出演した当時のスター)を見ろ!』と喜多川さんは叫びました」(「女学生の友」64年4月号)

早朝、自らメンバーの送り迎え

   またマネジャー役としても、ジャニーさんは甲斐甲斐しく世話を焼いていた。

「午前七時半。東京駅降車口にとまっている一台のワゴン・カー。運転席から中年の紳士が改札口のほうを見ている。紳士の名前はジャニー喜多川さん。
   まもなく改札口から、四人の若ものが出てきた。おそろいの背広にしゃれたスーツケース。真家ひろみ、あおい輝彦、中谷良、飯野おさみ、おなじみジャニーズのめんめんだ。 『おつかれさま。』
   ジャニーさんに迎えられて、四人はワゴンに乗り込む」(「女学生の友」64年12月号)

   こうしたジャニーさんに、4人も信頼を置いていたことがうかがえる。

「真家 (振り付けなどをめぐり)自分自身の意見があるんです。それで意見が対立すると、ジャニーさんのところへ行って、どうしたらいいかと相談して、まとめてもらうんです」(「週刊平凡」64年7月号)

「YOUやっちゃいなよ」精神は半世紀前から

   こうして1964年の記事を読むだけでも、すでにその露出の多さは「裏方」の域を超えている。「女学生の友」記者が(誉め言葉ながら)「ヘンなマネジャー」と評したその姿は、「生涯裏方を貫いた」にもかかわらず、タレント以上に強烈な印象を残したジャニーさんの人生を象徴するようだ。

   また、その個性的な言動――たとえばダンス未経験の少年に「きみたちだけができないわけはない。チャキリスを見ろ!」と活を入れるくだりなどは、のちに口癖として有名になる「YOUやっちゃいなよ」そのままだ。

   1964年の雑誌に掲載された、32歳の顔写真。それは、半世紀以上にわたり走り続けたジャニーさんが、まさにスタートラインに立った瞬間を捉えた一枚だった。

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