東京代々木の「ナイス・ガイ」
たとえば、「ミュージック・ライフ」64年11月号は、ジャニーさんをこう描写している。
「よく世の中には、三度の飯より野球が好きとか、プレスリーを一日に一度きかないと寝つきが悪いというような、ウレしい人がいるものですが、この二つを同時にあわせ持ったようなナイス・ガイが、東京代々木に居たのです。
その人の名はジャニー・H・喜多川氏(※編注:ジャニーさんの日本名は擴(ひろむ))、その名前でわかるように、ミスター喜多川氏は、ロサンゼルス生れの二世でした」
その「ナイス・ガイ」はあるとき、野球チーム「ジャニーズ」に出入りしていた4人の少年を、ある映画に連れていく。
「『君たちにすばらしい映画を見せてやろう。「ウエスト・サイド物語」、ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルを映画化したものだ。ダイナミックな踊り、唄、演技、こいつは野球よりおもしろいかも知れないよ』
喜多川さんは、興奮していた。(中略)ポカンとしたのはジャニーズのめんめんだが、狐につままれたような気持ちで『ウエスト・サイド物語』を見に行った」(「週刊明星」64年7月号)
映画に感化された4人は、芸能界を志す。だが、まったくの未体験だったダンスには、しり込みすることもあったようだ。ジャニーさんはこう叱咤激励する。
「喜多川さんには自信がありました。『15、6歳ごろの吸収力は人生で最高』というのが喜多川さんの、かねてからの持論なのです。『このとしごろでやってやれないことはひとつもない。きみたちだけができないわけはない。チャキリス(※編注:「ウエスト・サイド物語」に出演した当時のスター)を見ろ!』と喜多川さんは叫びました」(「女学生の友」64年4月号)