2019年5月14日、ユネスコ諮問機関のイコノスが、大阪府の百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産に登録するよう勧告したことが明らかになった。これにより、百舌鳥・古市古墳群は19年6月30日から7月1日にかけて開かれるユネスコ世界遺産委員会の審査で、世界文化遺産への登録が濃厚となった。
百舌鳥・古市古墳群には日本最大の前方後円墳の仁徳天皇陵(大山古墳)、それに次ぐ大きさの誉田御廟山古墳などが含まれ、教科書にも登場する代表的な古墳群だ。
ところが、古墳の写真を見ると、「前方後円墳」という語に違和感を覚えないだろうか。
円い方が前なのでは?
報道や書籍に使われる前方後円墳の写真は、たいてい円形の部分(後円部)が上で、方形部(前方部)が下になった、鍵穴のような形状。しかし前方後円墳という語からは、方形部が前で円形部が後ろというのが正しいのでは、という疑問がわく。実際、
「前方後円墳だって言ってるのに、教科書とかその他諸々は丸の方を上にした写真ばかりなんだろう」
という疑問を抱く人は少なくないようだ。
なぜ「前円後方墳」ではなく「前方後円墳」と命名されたのか。調べてみると、江戸時代の学者・蒲生君平(1768~1813)の命名によるという説に行きついたが、さらに詳しい事情を奈良県立橿原考古学研究所主任研究員の東影悠さんに伺った。
ちなみに英語では...?
東影さんによれば、確かに前方後円墳の命名者は蒲生君平で、
「被葬者が埋葬されている後円部は、横から見ると前方部より盛り上がって見えます。後円部を牛車の人が乗る部分に見立て、低い前方部を牛が牽く部分に見立てました」
という。蒲生は自ら記した古墳の研究書「山陵志」の中で初めて前方後円墳という言葉を用いた。空撮写真が簡単に撮れる現代と違い、江戸時代には地上から古墳を見上げるしかなく、被葬者が埋葬される後円部をいわば本体とし、古墳全体を車に見立てたのが蒲生の考えだった。そこで方形部が車の前、円形部が後部となって、前方後円墳と呼んだ。
以後200年にわたってこの呼称が定着しているが、現代の考古学界では前方後円墳の前後について特に定義はないと東影さんは続ける。「前円後方墳」というわけでもないようだ。
「学界では一部の研究者から違う名称にしてはという意見が出たこともありましたが、前方後円墳のインパクトが強烈で、他の名称が定着するには至っていません」(東影さん)
ちなみに前方後円墳の英訳は「Keyhole-shaped tomb」で、上から見ると鍵穴のように見えることが語源である。
(J-CASTニュース編集部 大宮高史)