戦争を国家の「営業品目」に入れるのは、いわば帝国主義国家の当たり前の姿であるが、日本の場合、その主役が軍事指導者であった。彼らは、持たざる国のわが国が、軍事による権益の確保という結果を得るために、しばしば巧妙な論を振り回した。昭和6(1931)年の満州事変のときは、生存圏の拡大という論を振り回す論者もいた。どの国にも生存を保証するために、軍事力で支配圏を拡大する権利があるというのであった。
むろんこれは民族自決に向かっている時代にふさわしくないのだが、持たざる国の論理として用いられた。まさにナチスの哲学でもあった。
賠償金の「うまみ」忘れられない軍人たち
日露戦争の時に、外務大臣の小村寿太郎はロシアとの講和交渉で賠償金が取れるとは思っていなかった。戦争の現実が、勝利という状態ではなかったからだ。講和交渉の席に日本は勝者として座っているが、ロシアはそうは思っていないことを知っていたからである。首相の桂太郎は、逆に賠償金にこだわり続けた。軍人出身者は、そのうまみを忘れることはできなかったのである。この構図(戦争に勝って賠償金を獲得する)は、軍人にとっての営業品目というのは、具体的に戦争に勝つことが政治の軋轢を克服するという理解よりも単純化しているだけに、分かりやすかった。
昭和12(1937)年7月からの日中戦争は、その意味では日清戦争時の過大な賠償金獲得のイメージを思い出させても不思議ではなかった。11月からのトラウトマン工作はそれにならって、帝国主義国家として賠償金と領土の獲得を目指したわけであった。当初の案は中国の反日行動の停止や日本製品の関税引き下げなどであったのが、日本軍が首都の南京を陥落させてからは、既述のように満州国の承認、対日賠償などが加付された。
トラウトマンはこれを蒋介石政府に示した。ちなみにこの日は昭和13(1938)年l月2日であった。蒋介石は自らの日記に、「日本側の提出した条件は、我が国を征服し滅亡させるに等しい」と書いた(黄仁宇著、北村稔ほか訳『蒋介石』)。この頃、蒋介石はスターリンに援助を求めていたが、拒絶されている。ドイツも日本と防共協定を結んだために、蒋介石政府から離れていった。そういう状況にもかかわらず、蒋介石と側近たちは現状を世界戦略の中で捉えていた。これが前述した、この期の人類史をどう捉えるかである。
もう少し、この賠償金について触れておくが、日中戦争は長期化すると見て近衛文麿内閣は戦費の捻出のために国民への協力を求めている。各メディアもそれに協力させられている。この点を確認しておく必要がある。
日中戦争時に大蔵大臣を務めた賀屋興宣は、自ら称したように戦時経済の日本の第一人者であった。彼は昭和12、13(1937~38)年ごろに戦費調達のために銀行家や財界人、さらには一般国民に向けて、貯金を、贅沢せずに、と説いている。それによるならば、戦時経済とは「多額の資金が、政府の支払として撒布されるのであります」と言い、昭和13年、14(1938~39)は平時の予算に比して、50億円から60億円は増えると説明する。これだけの巨額の資金の調達が必要とすれば、どのような方法があるかを模索するのが財政専門家の腕の見せ所だと説く。