大隈重信じゃないのか――2019年4月9日、「新しい紙幣」の顔ぶれが発表されると、こんなため息が一部から聞かれた。
大隈重信(1838~1922年)といえば、首相も務めた明治・大正期を代表する政治家の一人だ。ご存じの通り、早稲田大学の創設者でもある。さらに言えば、現在の貨幣単位「円」の制定にも携わった張本人だ。「お札の顔」になる条件は、十分に満たしているようにも見える。
部下、ライバルらに先越され
だがこの方面では、「ライバル」慶応義塾大学の創設者・福沢諭吉の後塵を拝している。その福沢は2024年、1984年以来40年にもわたる「1万円札の顔」を降りるが、その後任は渋沢栄一に。明治初期には大蔵省で、大隈の部下だった人物だ。
ついでに言えば1000円札の北里柴三郎が、現在も残る北里研究所を設立したのは、大隈内閣との対立がきっかけだった。また、5000円札の津田梅子が米国留学するきっかけとなった「岩倉使節団」は、もともと大隈のアイデアだったともいわれている(諸説あり)。奇しくも、縁がある面々に「先を越された」わけだ。
大隈はなぜ、「お札の顔」になれないのか。しばしば指摘されるのは、大隈が福沢と違い、「政治家」でもあることだ。
過去には、岩倉具視が500円札(51年~)に、板垣退助が100円札(53年~)に、伊藤博文が1000円札(63年~)と、政治家が「お札の顔」になった例は少なくない。特に伊藤、板垣は、これまた大隈の「ライバル」だ。3人の銅像は議会政治の功労者として、今も国会に並んでいる。この流れからすれば、大隈がお札になってもおかしくないように見える。
ところが、伊藤が1000円札に選ばれた際、ちょっとした議論が巻き起こった。「(朝鮮)半島の人は、伊藤博文といったら、これは帝国主義侵略のシンボルのように思っている」(62年8月31日、参院外務委員会)と、国会で野党から批判を受けたのだ。
こうした経緯もあってか、伊藤が「降板」した84年からは、「お札の顔」は文化人や教育者に。以降、政治家が選ばれた例はない。大隈のお札入りは、一気に厳しい状況になってしまった。
90年代に訪れた「最大のチャンス」
だが、大隈が「お札の顔」になれるチャンスが、実は存在した。90年代のことである。
80年代末から90年代前半にかけ、政財界では「5万円札」「10万円札」などの高額紙幣を発行すべき、という議論がたびたび巻き起こった。90年には、今上天皇の即位の礼に合わせ、「5万円札・10万円札の出番近い?」(日経、90年1月1日付朝刊)との観測も飛び出す。
これに応じたのが、大隈の出身地・佐賀の人々だ。「大隈重信侯誕生地記念会」と、早稲田大学のOBからなる稲門会佐賀県支部が中心となり、当時の市長を会長に「大隈重信侯をお札にする会」を結成した。県知事も巻き込み、94年には「大隈10万円札」の見本を作成、市内でパレードも(朝日、94年4月4日付朝刊)。翌95年には10万人分の署名を集め、大蔵省(当時)への陳情に動いている(読売西部版、95年4月20日付)。
大隈が「お札の顔」になれる日が近づいた、かに見えた。
それでも、いつかは...?渋沢との共通点
だが、その後10万円札などの「高額紙幣発行論」はしぼんでしまう(むしろ近年では犯罪対策のため、高額紙幣を廃止する動きさえある)。
その中で、「大隈10万円札運動」も署名提出をピークに、やがて立ち消えになってしまった。佐賀市にも尋ねてみたが、把握している限りでは「現在はそういった取り組みはしていない」という。ここでも、大隈は「お札の顔」になり損ねたのである。
そんな大隈だが、「コインの顔」にはなったことがある。2010年、地方自治法施行60周年を記念して発行された記念貨幣(1000円・500円)の佐賀県版として、大隈の肖像が使われたのだ。
思えば、今回「1万円札の顔」に選ばれた渋沢栄一も、かつて伊藤博文と1000円札の座を争い、惜しくも落選した。その後、地元・埼玉県深谷市では、「渋沢10万円札」も作って、「採用運動」を繰り広げてきた。2014年にはやはり地方自治法施行60周年の一環として、埼玉県代表の記念貨幣に選ばれるなど、その「歩み」は大隈と共通点が多い。
大隈重信も、いつかは――?
(J-CASTニュース編集部 竹内 翔)