「いつかは男子選手を育ててみたい」 勇退の小出監督、語っていた「もう一つの夢」

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   女子マラソンの名将・小出義雄氏(79)が指導者として第一線から退いたことが2019年4月1日、複数の関係者の話で分かった。

   小出氏は、五輪2大会連続メダルの有森裕子さん(52)、2000年シドニー五輪金メダルの高橋尚子さん(46)ら多くの世界的ランナーを育てた。年度末となる3月31日に実業団ユニバーサルエンターテインメントと結ぶ指導委託契約が満了したことで区切りを付けたようだ。

  • 2000年、シドニー五輪を制した愛弟子・高橋尚子さんと(写真:青木紘二/アフロスポーツ)
    2000年、シドニー五輪を制した愛弟子・高橋尚子さんと(写真:青木紘二/アフロスポーツ)
  • 2000年、シドニー五輪を制した愛弟子・高橋尚子さんと(写真:青木紘二/アフロスポーツ)

無名の有森、高橋の才能を見抜いた眼力

   小出氏は千葉県内の高校を卒業後、しばらく家業の農業に従事していたが、陸上への情熱を捨てきれず22歳で順天大に入学した。3年連続で箱根駅伝に出場し、大学卒業後は地元の千葉県内で体育の教師として教鞭をとった。なかでも市立船橋高での実績は輝かしいもので、1986年の全国高校駅伝ではチームを全国優勝に導いた。

   88年に教員の職を辞して実業団のリクルート・ランニングクラブ監督に就任。ここでさらなる指導力を発揮する。当時、無名だった有森さんを世界トップの選手に育て、有森さんは92年バルセロナ五輪銀、96年アトランタ五輪では銅メダルを獲得。これに続き、97年世界陸上では鈴木博美さん(50)を金メダルに導き、女子マラソンの名将として確固たる地位を築いた。

   そして00年シドニー五輪で高橋さんが女子マラソン初の五輪金メダルを獲得。高橋さんのリクルート入社にあたっては、小出氏の「先見の明」によるところが大きい。当時、リクルートの方針でランニングクラブは大卒選手を採用していなかった。だが、大学時代にリクルートの合宿に参加した高橋さんの走りを見た小出氏は、すぐに才能を見抜いたという。高橋さんの強い入部の意志もあり、契約社員という形で入部を認めた。

   小出氏の「先」を見る力は、他の指導者と比べ突出していた。記者は99年から小出氏を取材してきたが、高橋さんが金メダルを獲得したのちに語った小出氏の言葉が印象的だった。「これからの女子はそう簡単に日本選手が勝てないようになる。アフリカの選手が今まで以上に出てくるようになるから」。この言葉通り、04年アテネ五輪以降、日本選手は五輪で表彰台を逃し、現在の女子マラソン界はアフリカの選手がトップを独占している。

果たせなかった夢は新たな世代へ

   01年にカナダ・エドモントンで開催された世界選手権でも小出氏はある予告をしていた。1万メートル英国代表のポーラ・ラドクリフさん(45)のレースを観戦していた時とのこと。ラドクリフさんはこのレースで4位に終わったが、小出氏は「この選手がマラソン走ったら速いよ。誰もかなわないよ」と語った。当時、参考程度に記者の頭の片隅に留めていた言葉だが、2年後にこれが現実のものに。02年にマラソンに転向したラドクリフさんは03年に世界記録を樹立。2時間15分25秒は15年以上経った今でも更新されていない。

   リクルート、積水化学で監督を務めた小出氏は、01年6月に佐倉アスリート倶楽部を設立し、以降、指導者として女子陸上の発展に貢献してきた。女子マラソン史に輝かしい実績を刻み込む小出氏だが、かつてこぼした言葉が印象に残っている。「いつかは男子選手を育ててみたい」。女子マラソンで世界選手権、五輪を制した名将の最後の夢が、男子選手を五輪の表彰台に上げることだったのだろう。

   平成の始まりととともに女子マラソンの一時代を築いた小出氏。20年東京五輪を控えて第一線から退くことになったが、小出氏が果たせなかったもうひとつの夢は、新たな世代の指導者によって受け継がれるだろう。

(J-CASTニュース編集部 木村直樹)

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